書残す 三河国設楽郡宗高町の事
書残す三河国設楽郡宗高町の事


地名のこと


長篠合戦図屏風(部分)/二木健一著「長篠の戦い」 愛知県新城市平井字原
     〃    字野中
     〃    字道目木
この三地区に相当します。



最寄の交通機関はJR飯田線で東新町駅・茶臼山駅となります。これでは分かり難いでしょう。 目印は長篠合戦のあった設楽原です。武田の騎馬軍団と織田・徳川の鉄砲隊が、連吾川を挟んで対峙したあの設楽原の隣です。連吾川から西に1.5kmのところに宗高はあります。上記の飯田線茶臼山駅は、徳川家康の本陣から取った駅名です。


宗高と表記しムナダカと発音する、同音・同字のところは全国で二箇所です。


三河國設楽郡宗高村、
遠江國榛原郡宗高村(現在住所表示 静岡県志太郡大井川町宗高)

大井川の河口周辺の古地図


静岡県富士市宗高
群馬県伊勢崎市宗高町
山口県美弥市大嶺町東分宗高


伊能図群馬県高崎市棟高町


ここは宗高あるいはその類似地名の中で三州宗高に一番似た景観を持っている所です。雄大な榛名山東南山裾が前橋台地の移行する緩やかな南北の傾斜面上にあり、東西は起伏が襞をなしている、襞の高みに街道が通り街道に面して集落がある、この集落が棟高です。


村高と言うのも宗高の類似地名です。元はムナダカであったものがムラダカに転移。


安城市村高町

参河国郷帳


土地の言い伝えとして「宗高」の地名起源を聞いたことはなく、住む人にとってもう忘れられたことのようです。しかし、有難いことに元禄・享保の頃活躍した人、太田白雪が享保14年(1729)に著した「新城聞書」の中に書き留めておいてくれております。

 

「新城聞書」と太田白雪肖像/「太田白雪集」 「宗高町ハ平井ノ出村 むなだかという処ノ野ツヅキ故 右ノ名アル 昔ハ泥町ト云シナリ」 これにより、平井村の場末にムナダカと呼ばれる野があり、そこに新開地が出来、宗高町になった。

「泥町ト云イシナリ」と言うことで新開地は当初土が固まらず雨でぬかるむ往還の様子が目に浮かぶようです。たった37文字ですが素晴らしく、有難い記述です。尚、大田白雪は江戸中期の新城の実業家で俳人です。松尾芭蕉の門人で、元禄4年(1691)に芭蕉は白雪を訪ねて新城に来て、一緒に鳳来寺山を参詣しております。


地名の語源については色々なことが考えられ、学者により色々な分類がなされております。「宗高」の語源を考えるときは、人縁・信仰・行政・地形、この四点は落としてはならないと思います。

先ず手始めに「人縁」から考えてみます。人縁となると先ず、人名があります。人名は苗字と名前に分けて見なければなりません。宗高という苗字は有りますが発音は「ムネタカ」のようです。現在の電話帳では岡山・大阪・東京に見ることが出来ます。どうやら本貫は岡山のようで、岡山県久米郡久米町と同県和気郡和気町に塊ってみることが出来ます。逆に、宗高とか棟高という地名のところに宗高姓の方は見えないようです。これ等のことから、苗字由来の宗高地名はないようです。

 

名前が宗高という人物はいます。そのうち地名に名を残すのは伊勢崎藩士「高木治郎左衛門宗高?ムネタカ?」です。
 

群馬県伊勢崎市宗高町は明治3年に高木治郎宗高の屋敷跡に
武家屋敷旧藩士のために12軒の家が建てられたことに始まります(角川日本地名大辞典)。 宗高町の読みはムネタカチョウです。伊勢崎で南北に流れる粕川が大きな岩に流れを阻まれ湾曲して出来たDの字のような地形のところです。

外に人縁の地名として、開拓者の出身地に由来するものがあります。静岡県富士市にそのような伝承のある地名がありました。戦国時代に胸高とも記され、江戸時代は宗高村となり明治九年まで続きましたが近隣の村との合併で宗高の名前が消えてしまいました。角川日本地名大辞典によれば「宗高村は駿河湾に注ぐ潤井川の支流沼川右岸に位置し、地名は開発者の故郷に由来するというが、未詳」と書かれております。下の伊能図を見ると微高地に在った村のように見えます。

 

伊能図より抜粋


宗高と言う地名が宗教・信仰に関りのある地名ではないかと言う点を調べておく必要があります。 先ず、宗高と言う神社があるか。コンピュターで検索しました。

  1. 福岡県みやま市瀬高町堀切竹葉 宗高神社
  2. 福岡県飯塚市椋本 宗高天満宮
  3. 和歌山県田辺市長野988-2 宗高神社

以上3社が見つかりました。
@の読みはムネタカジンジャ、祭神は柳川藩の重臣竹迫種重とのことです。住所の竹葉は祭神竹迫から来ているとあります。竹葉神社又は種重神社でよさそうな気がしますが、何故宗高神社なのでしょう。昔、堀切城の有ったところらしく地形的に微高地といえるかもしれません。しかし、ムナダカ・ムネタカという地名はありません。(本件はみやま市教育委員会のご協力をいただきました。有難うございました)
A神社名の由来は分かりませんでした。高台の端にあるお宮ですから地形から来ている宗高かもしれません。ここにも、ムナダカ・ムネタカという地名は有りません。しかし、@と共に筑紫の宗高について小字名など調べる必要がありそうです。
Bこちらは那須与一宗高を祀る神社、とはっきりしているようです。この神社は八幡神社の境内社で、八幡神社は那須与一宗高創建とされており、地元の人は「那須八幡」とも「那須与一さんの八幡さん」とも呼んでいるそうです。

以上から宗高神社に由来して宗高という地名が生まれたという例はないようです。しかし、神社由来の宗高地名は無いと即断は出来ないようです。それは、群馬県高崎市棟高(ムナダカ)町にその可能性か考えられているからです。角川歴史地名大辞典によれば「地名の由来は明らかではないが、鎮守の胸形神社によるものとおもわれる」、平凡社日本地名大系では「地名の由来は鎮守の胸形神社か、地形によるものと考えられる」、と確たるところではないが神社由来を推測しています。現地は高崎から三国街道を北上すると、先ず胸形神社があります。鳥居の手前には道祖神も祀られておりここから棟高の集落が始まります。大きくはないが印象の強いお宮です。しかし、三国街道を歩けばそこが舌状台地の胸高地形であることはすぐ分かります。

胸形神社

次はお寺です。宗高寺というのは見当たりません。地名語源としては除外していいと思います。


政治の制度が地名として残っている例は一色・免田等沢山あります。
宗高という地名は行政とは関わり合いない地名のように思います。しかし、沼津市の宗高について吉田東伍著「大日本地名辞書」では、「民家棟別に田地を持たりし故、棟高を以って村名とす」とする 「掛川誌稿」の説を採用しています。

掛川誌稿写本

棟毎に田地を持たせることに対し、こうした制度に「宗高」と言う言葉が使われていたのか。有ったとすれば別の地でも制度語源の「宗高」地名があってよさそうに思われますが、他には見当たらないようです。また用語として史辞典等では確認できておりません。
平凡社「日本歴史地名大系」角川書店「日本地名大辞典」は、語源について触れておりません。吉田茂樹著「日本地名語源事典」は、大井川扇状地の微高地説を取っております。


日本の地名は数千万とも一億とも言われとっても実数は分かりません。無数にある地名の語源を分類すると地形に由来するものが一番多いでしょう。
宗高という地名も地形に由来するものが多いと思います。山とか岡というほど高くは無いが、胸や棟のように周りより少し高いところに、宗高や棟高という地名が付いています。舌状台地や大河川デルタの自然堤防等に見られます。山が多くそこから幾筋もの河川が流れ出し海と山とが接近している 日本では、沢山の「宗高」地名が在ってもよさそうですが、実は少ない。これはどうしてだろうと不思議に思います。
「宗」と「高」と高さを示す語が重複しているためでしょうか。同じ意味の語を重ねるより「宗○」と言う表現で、高い所ともう一つ別の特徴を示せるわけですから。愛知県だけでも「宗○」地名は数あります。全国地名索引などで見ても数ありますが、地形由来と思しきものも数ありますが現地を見ていないので決め付けるわけには行きません。
「宗○」に大きな地名はなさそうで、大きくても江戸時代の村レベル、ほとんどが字レベルの狭い地域の名前のようです。このことが何を意味しているのか分かりません。

地名所在  地形
宗畑知多市高いところの畑
宗山知多市小さな凹凸の多い地形
宗畜立田村ムネカイと読むようです  ?
宗定豊田市川が蛇行して出来たところ
宗広幸田町岡の端の傾斜地
宗末豊橋市自然堤防の端
宗国新城市高い処にある傾斜地で、片方は崖です

 宗高という地名の語源について人縁・信仰・行政・地形の各面についてみてきました。それでは、三州設楽郡宗高町の「宗高」は上記の四ツの語源のどれに当たるのだろう。
 先ずはじめの二つ、「人縁」と「信仰」は除外していいと思います。宗高○○あるいは、○○宗高といった人物はここでは見当たりません。また、宗像神社系の神を祀る神社は近所を含め見当たりません。
 次に行政関連の語源ですが、これも可能性は薄いと思われます。掛川誌稿「民家棟別に田地もたりし故 棟高を以って村名とする」という沼津市の宗高語源説が、三州宗高には当てはまらないと断言していいか、悩むところです。三州宗高のような新開地では、往還にそって短冊を並べたように土地が開発され、その土地ごとに家が建ち「高」が決められる、これはごく一般的なことだから「棟高制」なる言葉が有ってよさそうですが辞書には見当たりません。「棟高制」→「宗高地名」は少し無理ではないか。

航空写真
 三州宗高の地名語源は地形と考えて間違いないと思います。先ず、右の航空写真を見てください。台地が東の半場川と西の沖野川に浸食され、舌状になっている所が宗高です。雨水は沖野川と半場川に流れます。地形的には高いところで間違いありません。
 地名伝承のところに書きましたように、平井村に「むなだか」と呼ばれていた所がありその一部分が独立して「宗高村」となったわけです。従って平井村の人達が沖野川と半場川に挟まれた地形の舌状台地を「むなだか」と呼んでいたところに地名起源があると思います。
 「むなだか」に好字が当てられ「宗高」と なったということです。


 三州設楽郡宗高村(町)新切帳には数多くの地名が記されております。具体的に書き出してみると下記のようになります。

慶安二年新切帳屋敷、とやば、とうめき、井ノ上、田のくろ
承応三年新切帳やしき
寛文十二年新切帳野中、とやば、やしきそひ、南町うら、とうめき、町うら
元禄七年新切帳やしきの内、やしきうら、はんば、やしき、野中
 

 これが天保二年の反別改帳になると次のようになります。
 「屋敷」「札木辻屋敷」「とうめき」「野中」「井ノ上」「町裏」「半場」「とやば」
 明治になっておこなわれた「明治十五年愛知県郡町村字名調」によれば、「原」
「道目木」「野中」の三つに集約されている。そして現在行政地名(注;「地名のこと」先頭行参照)として用いられているのも、「原」「道目木」「野中」の三つです。
 これを江戸期と結び付けて表にしたのが下の表です。

江戸期明治期現在
屋敷、やしきの内、札木屋敷
野中、やしきそえ、やしきうら、南町うら野中野中
とうめき、とやば、井ノ上、はんば、田のくろ道目木道目木

 読みは、「原」ハラ、「野中」ノナカ、「道目木」ドウメキ。
 札木屋敷は現在、土地の通称名としても残っていないが、フダギヤシキと呼ばれていたでしょう。


 宗高の小字名に道目木<ドウメキ>という名があります。
 「ドウメキ」地名は川音の轟くところに付けられた名前といわれております。半場川は宗高町と設楽市場村とを分かつ谷川で三つ程の瀧を作って流れ下っております。瀧は宗高では「ドンドン」と呼ばれ、川上から順番に「チイドン」「オオドン」「金次郎さまのドンドン」と呼ばれております。

金次郎さまのドンドン
 この瀧を流れ落ちる水音の聞こえるところが「ドウメキ」だったと思われます。宗高村(町)新切帳では「とうめき」「とう免き」と書かれ、二筆があります。天保反別改帳でも二筆、面積で十九歩と小さなものです。
 現在では「道目木」と表記され半場川添の東側地区の「とやば」「半場」と呼ばれたところも含むように広がっております。一畝にも満たない小さなところの「どうめき」という呼び名が「とやば」という広い地域(相対的)を飲み込んで生き延びたのは何故だろうと、不思議に思われます。

 ドウメキ地名は宗高の近隣の村でも見ることができます。隣の設楽市場村でもドウメキの対岸に「どうめき」地名がありました。他に「野田村」「石田村」「杉山村」等沢山あります。この地方だけでなく日本各地にドウメキの名前を見ることができます。


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