書残す 三河国設楽郡宗高町の事
書残す三河国設楽郡宗高町の事


古きを探す


   宗高のお墓の入口に貞享と読める板碑が二つあります。
一つは貞享四年(1687)で、もう一つは剥落がはげしく判読できませんが、年号のところに「貞」の字が見られますから、これも貞享年間(1684〜1687)のものと推測します。

板碑正面  板碑斜め背面板碑側面

拓本風に表現 石碑に書かれている文字   この石碑の形は東三河地域でよく見られる古い形で、万治四年(1661)に江戸で作られた新城市間之町の庚申堂秘仏や17世紀後半の墓石などに見られます。三角頭で頂点に縞があり、三角の下に半円を持った二本の線があり凹面が特徴です。注目すべきことは貞享年間(4年間)に二基作られていることです。二組も順礼に出かける経済力があったことの証と考えるとすばらしい記念碑と言えます。なお、「貞享」は宗高で現在確認できる最も古い年号です。また、この石碑には宗高町と記されており「宗高町」の確認できる最も古い遺物でもあります。


手斧の柱   手斧の柱です。
手斧は現在も奈良・京都などで文化財関係者の間では使われているようですが、神社仏閣・高級和住宅に船等を含めても、一般では使われていないでしょう。田舎に行くと時々手斧で削った柱が使われている家が残っています。宗高にも一軒のこっています。右の写真のとおり長年煙に燻れて真っ黒。材質が何かは素人の私には分かりませんが、杉や檜と言った現在風の柱とは違った風合いでした。太さは5寸角ですが、長さがどれだけか測定できなかったので分かりません。 写真で分かるように、右奥の柱は同じように黒く煤びていますが手斧の柱ではないようです。この家の手斧の柱は二本です。このことは何を意味しているのでしょう。この家の出来た頃には既に手斧の柱が貴重品になっていて古材を再利用したのか、江戸時代は庶民の家に檜を使うことは許されず、主柱には強度のある硬い雑木を使うため手斧で削る必要があったためか、大工の「三種の神器」は曲尺・手斧・墨壷で、地鎮祭に続く大切な行事は柱を削る「手斧始の儀式」だったとか、この辺に手斧柱を神聖視する気持ちがあったのだろうか。また、庶民の住宅から手斧の柱が姿を消すのはいつだったのでしょう。柱にまつわる民俗伝承を含めて色々知りたいところです。


秋葉灯篭
   福住寺の境内に寛政七年に作られた秋葉灯篭があります。
当時の宗高の繁栄ぶりをよく現すものです。


二段の基壇・基礎・竿・中台・火袋・笠と積み上げられた高さは約2メートルあります。更にその下に高さ50cmの石垣壇が支えており、全体で2メートル50センチという立派さです。


笠は四隅が少し欠けておりますが、僅かに反り上がっています。


火袋の石の部分は28p×28pでその外に木枠にガラスがはめられております。この木枠とガラスは何時付いたものでしょう。

この秋葉燈は中台に特徴があります。前面と背面に彫刻が施されているのがそれです。

左の上段が前面、下段が背面です。
この飾りの付いた中台こそが寛政時代の宗高の繁栄を象徴するものです。

竿は高く曲線を持ったもので、前面に秋葉山・背面が常夜燈・右側面は寛政七乙夘霜月日・左側面は當所講中安全と刻まれております。基礎も厚く堂々としたものです。
全体に寛政期の秋葉灯篭の特徴を踏まえてデザイン性のある立派な灯篭で、宗高の資力と心意気を示す物になっております。
石は砂岩系の玖老勢石(クロゼイシ)だと思います。
寛政七年というのは秋葉灯篭では初期のもので東三河地区でも古いほうから数えて13番目という貴重なものですが、石の風化が見られ、東海地震での倒壊が心配です。 平成の今も宗高の人たちが順番を決めて明かりを灯し続けております。

 

ケイス

ケイスに刻まれた銘文


ケイスに刻まれた文字


   江戸時代の物を見つけたければお墓に行け、ということで、お墓に出掛けて一番古い墓石を探しました。積み上げられた無縁仏の墓石は対象からはずし、今もお参りが続いている墓石から探しました。


三角頭花頭凹面平石で、背面に鑿跡が残る角石塔、これが石も大きく一番古そうです。年号は、右に元禄(今は読み辛くなっている)、そして左に享保四年己□三月十□とあります。剥落がひどく戒名等は分かりません。蓮華紋は凹面幅より少し狭い程度のものです。
大きさは、
高さが約65cm(二尺二寸か)
肩までの高さが約60p(二尺か)
幅が約30cm(一尺か)
凹面の幅が約21p。

墓石の正面

墓石の裏面

この石塔の土台は、
高さが約14p
幅が約41p
奥行きが約38cm
となっております。この土台には前面両隅に直径約4p深さ約3pの穴が穿たれております。この穴は何の穴なのか?


この墓石が元禄に作られたものか、享保に作られたものかは判断できません。享保の場合は、外に正徳と読めそうな半部土に埋まった小さな墓石があるので、そちらのほうが古いことになります。


 宗高の南東の端にある樋場稲荷社境内で、注連縄や古くなったお札廃墟となった家の地の神様などが納められている一隅に、神祭りされている自然石があります。御鍬大まで読めますがその下は土にうずもれ読み取れません。おそらく御鍬大神と彫られて入るのだろうと想像します。旧南設楽郡内に祭神を伊雑大神・豊受大神と記した例がありますから。

御鍬大神

 街道(往還)で生計を立てる人の集まっていた宗高で、鍬の神様とは少しばかり不思議に思って調べてみました。
 鍬神は江戸時代の流行神でした。伊勢神宮や伊雑宮の御師という下級の神職が,木の枝を加工して鍬型をつくり村に送った、これを受け取った村では仮装したりして太鼓や笛を打ち鳴らし遊興し隣村へ送り、次から次へと村々を送り廻した。この波は六十年に一度といわれ江戸時代に数回大流行したようである。旧南設楽郡地方では、明和年間と文政年間にその痕跡が残されているようです。 旧南設楽郡内の御鍬社を明治十二年の神社明細帳で調べると二十四社ありました。明治の神社整理を考えると江戸時代はもっと多くあったと思います。なお、宗高の御鍬社は二十四社の中には入っておりません。
 二十四社で特徴的なことはいずれもが本殿の祭神ではなく境内社であることと、地区による偏りがあることです。 旧南設楽郡の内千郷村・新城町・東郷村・作手村に多く、鳳来寺村・長篠村にはほとんど見当たらない。さらに、千郷村・東郷村では御鍬社の祭神が伊佐波登美命・伊雑皇大神で志摩の伊雑宮系であるのに、作手村は豊宇気比売命・豊受大神を祭神とする伊勢の外宮系とはっきり別れている。由来については不詳としているのがほとんどであるが、東郷村出沢八平神社は明和四年伊佐波登美命を勧請したことを、また、作手村白鳥の白鳥神社は創立文政八年九月と記している。明和四年と文政年間は御鍬祭りが流行した時で大変示唆に富む記述と言える。
 樋場稲荷境内社御鍬社は明和四年伊雑宮御師がこの地方に送った鍬型を村送りしてお祭り騒ぎをした時に祀られたと考えてよい、と思います。


二体の石仏 宗高(愛知県新城市)福住寺の樹陰に写真のように二体の石仏が祀られております。左が如意輪観音、右が地蔵菩薩です。しかし、それぞれの台座を見ると左は延命地蔵菩薩念仏供養と前面に刻まれています。そして、右の台座には前面に女性の名前と思われるものが刻まれ、右側面は下の写真のように寛延二年(1749)の年号と女性名と思しき刻みがあります。このことから石仏を祀る場所を変えた時に間違えに気付かずに入れ替わってしまったと思われます。今回はこの如意輪観音についてみてみたいと思います。如意輪観音は右足を立膝して坐し、右手を頬に当てる思惟の相をした一面二臂で、東三河地方ではよく見かける石像です。如意輪観音は女性の墓石とか女人講の本尊として祀られることが多く、そうした石仏を各地で見ることが出来ます。

台座側面 福住寺の如意輪観音も女人講がお祀したものと思います(台座の左側面が見えないので判りませんが、おそらく女人講と刻まれているものと思います)。寛延二年(1749)にこうした石仏を祀った宗高の女性たちの力を見る思いがします。ただこの台座には疑問も感じます。刻まれている名前が三字三音らしいことです。江戸時代の女性名は「人々のこと」のところで書いたように二字二音なのです、三字三音は本当に特殊なのです。この三字三音をどう考えるか。一つは二音の頭に「お」をつけた、「きよ」は「おきよ」のように、だが頭の字は「お」ばかりではないようです。次は三字三音は源氏名では当たりまえであったから、この講は源氏名をもった職業女性の集団であったのか。寛延二年の頃は新城の東の端で歓楽的な施設が栄えていた、ということでしょうか。幕末の「宗門改帳」ではそのような気配は感じられないのだが。この石仏について、福住寺の本山永住寺の昭和53年の寺史「延命山永住寺史」で末寺の項「福住寺」の中では弥勒菩薩としています、寺の伝承にもそのようなものはないとのことであるから、そこまで難しく考えずに、単純に如意輪観音でよいのではないでしょうか。


 宗高に寺子屋があっただろうか。新城市誌に転載されている愛知県教育委員会調査の「寺子屋及び私塾調査表」や東郷村沿革誌にも宗高の寺子屋に関する記述はありません。
 では、宗高に寺子屋は無かったかと言えばそうではありません。有りました。 福住寺の墓地入り口に江戸時代のもと思われる無縫塔が七基あります。 そのうちの一つが、寺子屋を開いた住職の存在を記しております。

     無縫塔おもて  無縫塔うら面

     表の面 □□□住玄山海□和尚 (当寺前住玄山海翁和尚ではないか)
     裏の面 □政九□十月十日   (文政九戌十月十日ではないか)
               筆子中

 この無縫塔から文政年間に寺子屋が開かれていたことが判ります。筆子は寺子屋の生徒のことです。

 宗高町は農業ではなく商いで成り立った町です、それに、庄屋・組頭・百姓代などの村役を勤めた家も多かった。読み・書き・算盤の出来る人は多数居たと考えて間違いありません。
 こうした人達は何処で学んだか。新城や平井村清龍寺の寺子屋に通ったことも考えられますが、宗高町の隆盛を思えば地元の寺子屋で学んだ可能性が高い。無縫塔の記録は文政年間と思われるが、隣の平井村清龍寺で寛政年間に寺子屋が開かれていたことを思うと、もっと遡って考えられる気がします。
 全国レベルで考えるなら寺子屋の広まるのは天保以降の安政・慶応であったことを考えれば、文政年間でも早い時期から有ったとは言えます。


 前項で、文政年間に玄山海翁和尚が宗高福住寺で寺子屋を開いていた、と書きました。 その後、旧平井村の清龍寺の寺子屋のことを調べたところ、筆者の見落としと早とちりが見つかりました。
 清龍寺の寺子屋に関する資料は四点確認できました。

清龍寺卵塔                  

@

  東郷村沿革誌

 卵塔 寛政年間 下平井村清龍寺住僧の海翁が寺子屋を開いた

A

  新城市誌

 愛知県教育会調 寺子屋及び私塾調査表

 清龍寺 海翁(僧)読本・珠算・習字 寛政年間 教師1 生徒15

B

  延命山永住寺史(末寺「清龍寺」の項)

 寛政のころ、住僧玄山海翁和尚は寺子屋を開いて村内の子弟を教えた

 位牌 前住五世 玄山海翁和尚 寛政九年十月十日 示寂

C

  清龍寺卵塔

 風化しているが何とか海翁と判読できる

 Bの資料を読んで、玄山海翁和尚が、前項の宗高の寺子屋の僧玄山海翁和尚と、同名であることに気付きました。そうなると、宗高無縫塔の没年をもう一度確認する必要を感じ再調査しました。文政と読んだのは私の早とちりで「文」に当たる所は三分の二ほど欠落しており「文」ではなく「寛」のほうがよさそうです。清龍寺の位牌とピッタリ一致します。

 同じ人の無縫塔が二箇所にあるということになります。これはどう解釈したらいいのでしょう。福住寺は昭和十七年に焼失しているので位牌のことは判りません。海翁和尚は福住寺の住職をしていたが、その後、清龍寺の住職として移った。和尚はそれぞれの寺で寺子屋を開き筆子に慕われたので、没後、それぞれの寺の筆子が無縫塔を建てた。と言うことでしょうか。そうなら、宗高の寺子屋は清龍時より前の時期と言うことで、天明年間頃まで遡ることになるのだろうか。新しい資料の発見がまたれますが、謎も残る寺子屋です。


そぎ板
 宗高に唯一残されていた江戸時代の家屋が取り壊されました。伊那街道に面して建てられていたのですが傷みがひどく、屋根が湾曲し危険な状態に見えました。直すのにはあまりにお金がかかることで、取り壊しとなりました。残念なことです。
 屋根には枌〈ソギ〉が使われておりました。一枚の枌板は幅は10〜15cm、ながさが40cm程度の薄い杉板でした。使い方は、細い竹を簾状に編み、その上に枌板を敷詰め、土を少し載せて瓦を固定するというものでした。

枌板に瓦の屋根

 これは建てたときからこうであったのか、元々は、枌板だけで葺かれていたところに、町並みの防火の観点から瓦が載せられたのか、その辺のところは、勉強不足でわかりません。


ケイス


お経の一節  ケイスに刻まれた文字
福住寺は昭和十七年の火災で全焼してしまい、今に残る江戸時代のものは御本尊の薬師如来(年代不詳)と文政五年と記されたケイスだけです。福住寺では〈ケイス〉と呼んでおります、一般的にはこれで通用しておりますが、学術書では〈キンス〉とされています。ケイスは禅宗の寺院でよくみられます。仏前の台の上に置かれる鉢形の大きな金属製仏具です。勤行の合図としてバイで打ちます、余韻上声(ジョウショウ)の音を発するとされます。材質は銅が多いのですが福住寺のものは鉄製だと思います。大きさは口径一尺一寸(33.33cm)です。口縁部外面には取巻くようにして銘文が刻まれております。銘文はお経の一節を用い、異体字を使いながら右記のように書かれております。 

 (下線の部分は、前回銘文が一部読めないとしておりましたが、若き福住寺住職がこのページを読まれ、今回正解をご教授下さったものです。有難うございました。)


奉加帳の一部
 宗高南東の隅で江戸時代に「とやば」呼ばれたところに稲荷社(樋場稲荷)があります。
 宗高町「新切帳」には稲荷社の名前は見えませんが、天保の「反別改帳」には稲荷社として載っております。
 現在宗高区には、その稲荷社の拝殿を作る資金集めの奉加帳が残されております。この奉加帳は明治20年代のものと思われますが、稲荷社の謂れが書かれております。
 その箇所を読むと、菅沼家が転封で新城の領主として入府するにあたり、前任地丹波亀山城からこの「とやば」の地に移遷したように読めます。
 しかしそれでは不自然な感じがします。城主の信仰厚い稲荷社を城内や城下町ではなく、離れた隣村の隣になる宗高では少し離れすぎではないか。それに、菅沼家は慶安元年に新城に入府しているのに慶安二年以降の新切帳に載ってなくて、天保の反別改帳に載っているということも不自然ではないか。少し調べてみる必要があります。


稲荷社の拝殿
 宗高南東の隅に祀られている樋場稲荷(とやば稲荷)には本に書残されている伝承があります。 本の名は「思い出すままに―明治末期・大正・昭和初期の新城の暮らしと西小学校―」、平成14年の出版で、著者は阿部栄。阿部栄さんは大正から昭和の初期に東郷村(宗高村は合併で東郷村)の小学校の先生をしてみえた方です。 この本によれば、「樋場の稲荷様は、新城のお殿様のお言いつけによる、桜淵の稲荷様の御分神だと聞いている。」「樋場のお稲荷様には白いきつねがいるといった。道々おのぼり(正一位稲荷大明神 ○○年の女)を立てる。奥の院の上のところに木の根の穴があり、そこに白いきつねがいる、夕方などに時々見るといわれたが、私は見たことが無い。」とある。そしてご利益は、火難よけの稲荷様で火災にあわないこと、失せ物が見つかること、花柳界の信仰篤く芸妓のお詣りが絶えなかった、と書かれています。

奥の院
 ここで次の三点に注目してみました。
  @桜淵のお稲荷様の分神
  A殿様のお言いつけ
  B火難よけのお稲荷様

 まず、@の桜淵のお稲荷様というのは新城々内に祀られていた、領主菅沼家が丹波亀山城から移した、城内稲荷「玉照稲荷」のことでしょう。明治になりお城が整理された後は玉照稲荷が桜淵に移され、桜淵の稲荷様と呼ばれるようになっていたのでしょう。(現在はお寺に移されたと云います。)  次に、A殿様の言いつけとB火難よけ稲荷は、享保二十年三月十六日の宗高の大火の後に藩の方から火難よけの稲荷を祀るようにとのお達しがあったということではないか。しかし、とやば稲荷と享保二十年の大火を結びつける古文書は残されてはおりません。
 元禄七年までの各新切帳にはとやば稲荷の名前が出ておりません。
 確たる証拠はありませんが、両者を結び付ける享保二十年以降の勧請を物語っている伝承のように読めます。

稲荷社安鎮之証書の一例
 樋場稲荷(とやば稲荷)の由来に関る言い伝えを持った家があります。
 この家は天保の「反別改帳」に宝院、慶応の「宗門改帳」では教宝院と記されている家系です。 家伝によれば、樋場稲荷はご先祖が伏見のお稲荷様をお迎えして祀った、ということだそうです。
 これは城内稲荷伝承と相容れないことのように見受けられますが、次のように考えれば無理なく説明できるように思います。

   

@

 慶安の頃の街作りの段階で、土地の守り神としての狐信仰(東国の特徴)があり、

 

 段丘の東南の隅に狐塚があるのではないか。これは稲荷信仰以前の素朴な

 

 もので、狐穴・白い狐といった話として後々まで伝えられたのでしょう。

A

 享保二十年三月十六日宗高の町ほとんどを焼く大火事があり、

 

 藩としても城下に隣接する街道町宗高の復興は大きな問題であった。その復興

 

 計画の中に、菅沼家丹波亀山以来の「火防の城内稲荷」を宗高に勧請する事を

 

 組み入れた。城内の「玉照稲荷」が勧請され「とやば稲荷」として祀られるように

 

 なったと思われます。

B

 天保の頃「教宝院」を創立した法印が「とやば稲荷」の祭りを司るようになり、

 

 「とやば稲荷」に、伏見稲荷から「稲荷社安鎮之証書」を得たのでしょう。

 

 それまで城内稲荷勧請とは言え祠だけで無格の素朴な稲荷様に正一位稲荷

 

 大明神という神格を得て「稲荷社」らしいかたちが付与されることになったと

 

 思います。「稲荷社安鎮之証書」は樋場稲荷にあるのかどうか確認はできて

 

 おりませんが、江戸末期の法印と伏見稲荷社の動きから見ておそらく

 

 そう考えて間違いないと思います。(写真は樋場稲荷のものではありません)


福住寺
 宗高には、伊那往還が半場川の坂にさしかかる所の南に福住寺があります。曹洞宗の禅寺で正式には大宝山福住寺といいます。御本尊は薬師如来です。
 創建は東郷村沿革誌や平凡社・角川などの出版物は全て「寛文二年」ということになっております。これは明治十二年の「寺院明細帳」を拠所にしているからです。
 ところが、寛文二年創建と決め付けるには疑問符のつく、江戸時代の文書・遺物があります。
 一つは、「寛文十二年の宗高町新切帳」の「申ノ切」に、
     野中 下畑 弐拾ト 福住寺
とあります。この申の年は、寛文二年より六年遡る、明歴二年と読むのが正しいと思われます。
  もう一つは、太田白雪が享保十四年に著した「新城聞書」に、
     福住寺モイツタツト云事不知追テ考ベシ
と書いております。
 そして三つ目は、年代は判りませんがご本尊の薬師如来です。「新切帳」の20坪の土地でお寺が建つわけがありません、既に福住寺がありその用地に隣接して新に20坪の土地が拓き加えられたということを表していると読むべきでしょう。後世の文書から、この土地は寺の建物が建てられている土地ではなく、寺の畑地の拡張部分であることが判っております。

「新城聞書」では、寛文元年の生まれの大田白雪ほどの人が、「福住寺モ」「不知追テ考ベシ」というのですから、創建は簡単には決められないと考えるべきだと思います。
 「御本尊・薬師如来」。曹洞宗のご本尊・釈迦如来でなく薬師如来であることは、同寺の「元は天台宗だったが、後から曹洞宗に変わった」という伝承の残された証でしょう。
 ここで思い当たるのが、慶安二年の新切帳の第一番に書かれている「屋敷 中畑 三畝ト 寺」です。ここに書かれている三畝の「土地」と「寺」は現在の福住寺ではありませんし、寛文十二年の新切にある土地とも違うことは明らかです。しかし、「この寺」と「福住寺」が無関係ではなく関係はあるのだろうと考えます。鳳来寺系の僧が宗高の町作りの基礎をつくり、去って行って後、村人が守っていた薬師如来が、曹洞宗の教線拡大の中に取り込まれ土地を移して「福住寺」となって行ったのではないかと思います。

福住寺は寛文二年よりもう少し遡って考えたほうがいいと思います。福住寺は昭和十七年に全焼してしまい資料が残っておりません。明治十二年に平井村が愛知県に提出した「寺院明細帳」が、何を拠所に「寛文二年」としたのか、今はたどることが出来ないのが残念です。

東郷村沿革誌から抜粋

 今の宗高に往時の面影を残す道はほとんどありません。しかし江戸時代からあったと思われる道が舗装されたりして今も使われております。そんな道路が新城市の計画に則って、自動車の通れる4メートル道路として拡幅整備されることになりそうです。そこで江戸時代の面影の偲ばれそうな所を探して写真に残すことにしました。

明治八年の地図
 江戸時代からの道と捉えるには裏付ける地図や文献が必要ですが、適当なものが見当たりません。新城町時代には「宗高絵図」が倉庫に保管されていたという記録がありますが、新城市になってからはそれが確認できず、行方不明です。そこで明治八年の手書きの「宗高地図」をもとに現地に当ってみることにしました。
 ほかに明治18年に愛知県に提出した「平井村地図」(愛知県公文書館蔵)も参考にしました。この地図には道路の長さと幅員が記入されております。それによるとほとんどが1間幅と記されております。

稲荷道
 樋場稲荷に続く道は新町の芸者衆がお参りに通った色っぽい道です。当時はこんな農道を芸者集が歩いたわけです。

 お寺の路地はお墓参りの先祖供養の道です。絵図では林の中の道になっていますからもっと薄暗い路だったでしょう。

 藪外の道は屋敷地と畑地を分かつ藪に沿った百姓仕事の道でした。写真の左手梅ノ木のある側が藪で右手が畑でした。伊那往還が交通規制されたときの裏道でもあったでしょう。



お寺の道 藪外の道


 昭和の30年代頃までは江戸時代から続く古い墓所にはまったくの自然石やそこに戒名が刻まれている墓石を見ることが出来ました。それが日本の経済力がついた時代から、墓地全体を均一区画に整理したり、各家が立派なお墓に造り替えたりされて、自然石の墓石が消えてあまり見なくなってきております。 宗高の墓地にも同じことが見て取れます。そんな中で、享保の年号が読み取れる自然石の墓石が残っております。この墓石は「宗高で一番古い墓か」の項で紹介した墓石の仏と兄弟か子供で分家した仏だろうと推測します。この墓石は色々なことが読み取れそうな貴重なものです。

享保の墓石 自然石そのままの墓石

石垣に使われた墓石や枕石 戒名の彫られたものはこれだけですが、自然石そのもので墓石として祭られているものは数個あります。
 他に墓地の境の石垣に古い墓石が使われております。そこにある自然石の一部は墓石や枕石だったものが含まれていると思います。
 墓石は卒塔婆の発展形態であるとされていますが、土葬された土饅頭の上に置かれた自然石が墓石として祭られるように転化したと考えられないでしょうか。
 宗高の出来た頃は家意識・先祖意識はまだ希薄で死者は土葬され土饅頭の上に自然石が置かれていただけで石塔は立っていなかったのが墓所の風景だったと思われます。地下のあの世と地上のこの世の境に置かれた石、土饅頭上の自然石が、霊力を持った枕石が、家意識の高まりと共に、先祖祭りの墓石に転化していったのが宗高墓所の原風景ではないだろうか思うのですが、素人の考えでしょうか。

土饅頭の上に置かれた自然石


 今は田舎でもほとんど姿を見なくなった、竹で作ったお墓の花壺が宗高のお墓で見ることができます。宗高のお墓では、江戸時代末期はどのお墓も竹製花壺だったと思います。
 それが昭和の30年代まで続いていました。昭和の前半まではお盆が近づくと竹が手に入る家は自分で作り、そうでない人は荒物屋で竹製の花壺を買っていました。
 それが石油化学の発達で「塩ビパイプ」の花壺が使われだして、竹の花壺は姿を消していきました。それでも塩ビパイプに節飾りを付けて竹のように見せかけているものが多く使われました。
 宗高のお墓で今も竹製の花壺を使っているところは二軒だけになってしまいましたが、残っていることは嬉しいことです。

竹の花壺
 竹の花壺の基本形はA型だと思います。江戸の頃は丈が半分ぐらいの短いものだったでしょう。それが明治期にB型のようになったと思います。壺口のところには黒い麻紐が巻かれております。 これは飾りと同時に乾燥して竹にひび割れが入り水漏れするのを防ぐのが目的と思います。 もとは、縄が巻かれていたのが、細くて強く見栄えがいい麻紐に変わったと思います。竹の花壺が残っているのが見られるのは豊川上流のどの辺りからでしょうか。 同じ豊川流域でも河口付近の町では丈の短い陶器の花壺が使われていたかと思われます。日本全体で見ると江戸末期から昭和の中頃までどんな花壺が使われていたのでしょう。 今作られるお墓では、塩ビのパイプから、石製の墓石に組み込まれた花壺へと変わってきました。だんだんと江戸は見え辛くなっています。痕跡は大切にしたいものです。


 宗高の町並み越しに見える北の山並みは雁峰です。雁峰山は、東三河の神奈備山本宮山の東に連なる山並み全体をさします。

桜淵公園からみた雁峰山  写真は桜淵公園からみた雁峰山と山並みの遠望です。美しい緑豊かで穏やかな容姿から、麓の各地の人々に「カンボーヤマ」とか「カンボヤマ」と呼ばれ親しまれております。 このことをよく表しているのが校歌です。麓の旧千郷村・旧新城町・旧東郷村にある四つの小学校、三つの中学校、二つの高等学校全ての校歌に詩い込まれております。 このうち、新城東高校は「上秀〈カミホ〉」東郷西小学校では「神保〈カミホ〉」と詠でおります。この他の学校は「雁峰〈カンボウ〉」です。
 秀麗な雁峰の山並みの景観は江戸時代と今とでは大きく異なっているようです。江戸時代のそれは、里の人が水田に鋤き込む芝草や燃料にする柴を得る入会山で、 禿山の表現がぴったりだったようです。新城藩では植林もしたようですが、村民が苗木を切ってしまうという抵抗にあい断念をした歴史があるようです。
 東京堂出版「地名用語語源辞典」によれば「かんぼう @荒地、禿山‥ A草深い所‥」とあります。新城東高と東郷西小の「カミホ」というのは麓の神社の奥宮の岩座が あったとされるところから来ているようですが、語源をそこまで持っていくより、前掲の語源辞典の説のほうが、江戸時代の容姿をよく伝えていると思われます。

 

山並みの遠望


このページの最初に戻る

inserted by FC2 system