書残す 三河国設楽郡宗高町の事
書残す三河国設楽郡宗高町の事


別のこと

愛知県豊橋市には古い信仰の在り様を今に伝える歴史的なお祭りがあります。東海道ベルト地帯の30万都市町でよく残ったものだと感心します。一方、街おこしや観光的な新しいお祭りも生まれております。これ等の楽しいお祭りを毎月一つずつ紹介してまいります。


豊橋の祭りは1月4日の御幸神社の花祭りから始まります。
花祭りは三河山間部に鎌倉時代から続く民俗芸能として有名ですが、御幸神社の花祭りは昭和31年に始まった歴史的にはまだ若い花祭りです。それは敗戦後の食糧難の時代に旧陸軍高師練兵場の開拓に奥三河の豊根村から72戸の農家が移り住み農地作りの鍬を振り下ろしたことに始まります。
御幸神社開拓の苦難の中で昭和25年故郷豊根村の氏神様を勧請し御幸神社を健立し、昭和31年にはやはり故郷の花祭りを遠く離れた新開地で発足させ今日に至っております。



豊橋の花祭りには開拓民の祈りと感謝がこめられており、その心を偲びながら見るとき胸が熱くなります。

花祭り

見方を変えて、花祭りは冬祭り・冬至祭りの範疇に入ります。仮面をつけて冬の衰えた太陽の復活を願う祭りは世界各地にあるようです。特にドイツ南部の山里の冬祭りは有名です。豊橋はドイツ企業が日本本社を置いています、経済だけでなく花祭りを通して民俗的交流が出来たらどんなに素晴しいかと、胸がわくわくする花祭りでもあります。


豊橋に春の来訪を告げる祭りと言えば安久美神戸神明社の鬼祭りです。
豊橋の人々は鬼祭りにタンキリ飴と一緒に撒かれる穀物の粉(小麦粉)で町が白くなるとき、仮令小雪がちらついていても春の訪を感じるものです。
2月10・11日に行われる鬼祭りは、国の重要無形民俗文化財に指定されている、大変に長い歴史を持ったお祭りです。 お祭りは明治の終わり頃まで陰暦正月13・14日に行われていました、それが最近では2月10・11日となりました。 このように明治時代まで陰暦の正月に行われたということで分かるように、このお祭りは五穀豊穣と繁栄を祈願する新年の行事でした。仏教系の修正会〈シュショウエ)がその源で、赤鬼がそのことを表しております。全国に同じような祭りは数多くあります。そうした中で重要無形民俗文化財に指定されているのはなぜでしょう。
また、このような古い民俗芸能が東海道ベルト地帯の豊橋市にどうして残ることができたのでしょう。豊橋=吉田は城下町であり東海道の宿場町でもあります、加えて伊勢神宮の影響の強い神戸でもあったところです。新しいものが次々と入り古いものが消えてゆく町のはずなのに、このような古い民族文化を残したエネルギーはどこにあったのでしょう。
こんなことを考えて豊橋の町を歩き、鬼祭りを見るのも楽しいものです。 さらに、岡崎市滝町の滝山寺の鬼祭りを合せて見ると新しい発見があるでしょう。

岩戸の舞 岩戸の舞2 青鬼
天狗 御的の神事 赤鬼

ニの午の祭り(ニノウマノマツリ)。
花の市 午の祭りは稲荷社の二月最初の午の日に行われる初午が有名ですが、ところによっては二の午・三の午と待つところもあるようです。でも、東観音寺の二の午の祭りは稲荷の祭りではありません。
東観音寺の二の午の祭りは馬頭観音のお祭りです。 東観音寺の御本尊は馬頭観音です。御本尊のお祭りです。
毎年二月の第二の午の日に行われてきました。いつから始まったのか定かではありません、そのくらい古いのです。だから今も昔の暦どおりに行っております。今年の旧暦二月の二の午は四月二日でした。
畜魂碑 馬頭観音の祭りで有名なのは、奈良大安寺の二の午の祭りがあります。馬頭観音は、馬が牧草を食うように、諸々の悪趣を食い尽くすことを本誓とする観音様ですから、祭りは災厄除けのお祭りです。 このような馬頭観音が時代が下ると、牛馬の息災を守る観音様になり、更には 牛馬による荷役・物流の守りへと信仰が広がります。特に江戸時代にこの傾向が顕著となります。
東観音寺には農耕馬と絵馬の民話が残されており、二の午の祭りにも牛馬の息災を願う信仰が色濃く反映しておりました。農耕に荷役に牛馬が活躍していた昭和の中頃までは絵馬の店が出てにぎわったそうです。機械化が進んだ今は、絵馬も変わってプリント絵馬がお寺でいただけます。絵柄は馬・牛両方あります。 現在の祭りは花の市が参拝客を集めています。
絵馬


日本各地のお祭りには日本の古い言葉やその土地の方言を今日に伝えているものが多くあります。それらは、初めて聞いたとき意味がわからず戸惑うことが多いのですが、意味が分かるとなかなか味わい深い祭りが多いようです。
吉田(豊橋)湊の神明社に残る「おんぞ祭り」もその一つです。

湊神明社本殿蕃垣御門 「おんぞ」の漢字は「御衣」です。「衣」は古くは「そ」とも読まれました、したがって、「御衣」は「おんそ」→「おんぞ」となり、衣服を表す尊敬語です。



「御衣祭」と言う祭りは、浜松市北区三ヶ日町の初生衣〈ウブギヌ〉神社、豊橋の湊神明社、田原市伊良湖の伊良湖神社の三つの神社に残っております。この三神社の御衣祭は伊勢神宮の一連の行事を担っている祭りです。一連の行事とは、三河の国の優れた絹織物を伊勢神宮に納めることです。 三河国服部郷特産の「赤引糸」(生糸)で織られた絹織物は豊川河口の湊まで送り湊神明社で海の安全を祈願し伊勢神宮に送り届けられた、途中伊勢湾口の伊良湖でも安全航行の祈願と風待ちが行われたのではないでしょうか。この一連の流れは中で早い時期に、服部郷の織の技術を持った神服部氏一族が何らかの理由で遠江国岡本(浜松市北区三ケ日町)に移ったので、原糸は三河産赤引糸で変わることはなかったが、織は遠州で行われるようになった。
羽生衣神社絹織物が遠州岡本で作られるようになってからも、伊勢神宮への積み出しの港は湊神明社で変わりなかった。 こんな歴史を湊神明社では、五月の第二土曜日に、おんぞ祭りとして伝えております。祭りは、午後の四時、お旅所を「和衣〈ニギソ〉」(絹織物)の入った唐櫃に錦がかけられ運び出されるのが始まりです。神主と氏子の行列が湊町を進み湊神明社に運び込まれます。神明社に到着した唐櫃はいったん境内に白黒の幔幕を張った仮殿に西面して安置されます、ここで豊橋市長・氏子総代・町内自治会長等の出席を得て祝詞が奏上されます。直接神殿に入らず、先ずここで神事が行われることの意味は何でしょう。幔幕・唐櫃が西面しているということは伊勢神宮に面するということでしょうか。この後、唐櫃は神殿に進み神殿前で太鼓に合せて神楽でしょうか、お練のような神事を行い、その後神殿に運び込まれます。
昔は、「和衣」は風を見て船に積まれ伊勢に向かったわけですが、今は、後日三ヶ日町岡本の氏子と共にバスを仕立てて伊勢神宮に向かっているそうです。 そういえば、今、三河で養蚕を行っている家は一・二軒しかなく製糸が出来ないので繭を群馬に送り糸にしてもらい、その糸を三ケ日岡本で織っているそうです。

 
到着 仮殿での祈祷 拝殿前での舞 氏子

夏は食中毒を中心とした流行病の季節。昔からこの季節に牛頭(ゴヅ)天王を祭り流行病をふり祓い無病息災を祈願する祇園祭が日本各地で行われます。山鉾巡業の京都八坂神社の祇園祭・博多山笠・尾張津島天王祭などが有名ですが、豊橋吉田神社の祇園祭も他所では見られない特徴のある素晴しい祭です。

標識





手筒

国道1号線が豊川を渡る橋のたもとに「手筒花火発祥の地」という高い大きな標識が立っている所が祇園祭を行う吉田神社です。もうお分かりのように豊橋の祇園祭は「手筒花火」を中心とした花火祭りです。
手筒花火は三河・遠江の神社の祭礼時に神前で奉納される花火で、氏子が火薬を詰めた竹の筒を抱き抱え、降り来る火の粉をものともせず、火の柱を天に向かって噴射させる勇壮なものです。放揚する人、見る人を魅了し虜にする花火で、昔は火柱の美しさ・音・男気等を競うあまり、手首や指を損傷する人が出るほどでした。今は安全意識が高まり、そうした話は聞かなくなりました。昔を知る人にとっては幾分物足りなさを感じさせるものになっているかもしれません。 安全性が高まるとともに、神社の祭礼だけではなく色々なイベント会場でも手筒花火を行うようになり手筒(テヅツ)と呼んで親しまれております。豊橋市内だけで毎年29回も祭りやイベントで手筒が催されます(愛知大学三遠南信提携センター「手筒花火の基礎調査報告書」より)。東三河の人間は本当に手筒がすきです。
吉田神社の手筒花火は永禄元年(1558)とも言われる歴史の古さと、「吉田城内守護天王社」として城主の前で奉納されたという重み、奉納される本数の多さ等で他を圧しております。 一度見たら忘れられないそんな祇園祭です。

神社


秋は神社の秋祭りのシーズンで、毎週末数箇所のお宮で、祭り花火の音が響き渡ります。

造形パラダイス会場

クイーン登場

スライドショー

豊橋祭りは、そうした特定の神社のお祭りではなく、豊橋市全体の市民祭りです。現在は「豊橋祭り」と言っていますが、当初は「豊橋市民祭り」と言っていました。 昭和23年第1回豊橋市民祭りがスタートです。昭和23年は日本はまだ占領下(OCCUPIED JAPAN)の時代です。戦争国債の処理のためか激しいインフレに悩まされていた市民に、生活苦を束の間なりとも忘れさせようと、また、夢と希望を持たせようと企画されたのでしょう。

今、豊橋祭りの目玉の一つは「ええじゃないか」でしょう。「ええじゃないか」は、幕末の勤皇だ、佐幕だと緊張した政治情勢の中で突如発生しました。日本中の町人百姓が「ええじゃないか・いいじゃないか」とうたい踊り酔い痴れた大衆行動が「ええじゃないか」です。その発端の地は長いこと歴史の謎でしたが、近年古文書が見つかり豊橋であることが分かったのです。

慶応3年(1867)7月14日三州渥美郡牟呂村大西(豊橋市牟呂大西町)に伊勢外宮と伊雑社の御札降りがありました。村では、酒の振舞い・餅投げ・手踊りで臨時のお祭りを盛り上げたようです。その後御札降りが羽田村・草間村・吉田宿と続き、吉田宿からは東海道を江戸に・京にと東西に御札降りが広がりました。男は女装し女は男装して「ええじゃないか・いいじゃないか」と歌い踊り狂って全国30ヶ国に及んだのです。この大衆行動を影で演出したのは討幕派の人たちであったとも言われています。
豊橋祭りでは「ええじゃないか」を、この幕末世直し大衆行動の発祥の地として記念し、豊橋の世直しパワーとして取り入れております。



真田神社 寒くなり大根の美味しい季節になると、京都千本釈迦堂の大根焚・浅草待乳山聖天の大根祭り・高知市竹林寺歓喜天に酒と二股大根を供える祭など日本各地で大根にまつわる神事・仏事が行われます。そのご利益は中風封じ・ボケ封じ・無病息災・縁結・夫婦和合・商売繁盛等実に幅広いのです。日本人は昔から大根を薬とか滋養食と考えて食していたようです。春の七草にも入っておりますし、「徒然草」「養生訓」などの書物にもそのように見えております。俗諺に「大根どきの医者いらず」というのもあります。そんな大根を、真田幸村様宛てにして、川に流して喘息を治してもらおうという珍しい神事が豊橋にあります。渥美半島の付け根辺り、田原市との境、豊橋市杉山町の真田神社で十二月の第二日曜日に大根流しのお祭りが行われます。祭りの由来を語る民話によれば、喘息もちの幸助の枕頭に真田幸村が現われ、大根に真田幸村様行きと書いて北に流れる川に流せとお告げがあった。幸助はお告げのとおりにすると、喘息は快癒した。このこと以来村人は喘息快癒を祈って大根を川に流すようになった。と伝えております。

大根流し この神事の下には、当地が大根の産地であったことと、その大根に上述のような薬効を感じ取っていた人々とが結び付いて、土俗的大根信仰が根付いていたということがあったと思われます。そこに発信力のある吉田宿の喘息持ちの幸助が登場することで、喘息に効く祈祷として近郷近在に広まり祭がかたちづくられて行った。今日のように東海道地区に広く信者を得て祭りは賑わうようになった。では、戦国の武将真田幸村が何故ここに登場するのでしょう。現在神事を行うのは真田神社ですが、ここに真田神社が勧請されたのは大根流しの祈祷が定着したずっとずっと後のことですから、真田神社に由来するとは言えません。12月12日が、真田幸村が上田を発って九度山に向かった日というのも、何かこじ付けのような気がします。信州上田の真田神社には、大根・喘息にまつわる神事や言い伝えは残っていないようです。豊橋市杉山の真田神社大根流しの神事は、不思議な面白さや素朴さがあるお祭りです。なお現在は河川の環境を考慮して、大根そのものを流すのではなく、大根の絵の書かれた杉板を流すようになっております。

由来


菟足神社拝殿 三河国小坂井の豊川河口右岸段丘上にある菟足神社の「風祭」は宇治拾遺物語によって平安の昔まで遡り確認できる古い祭りです。今は4月の第2土曜日と日曜日に行われていますが、昭和時代までは4月9日、10日、11日と月日は決まっていました、祭典式は、

となっておりました。

御田植神事 9日、10日には珍しい神事が残されております。雀射初神事・雀射収神事がそれで神に豊穣を祈り、生贄として雀十二羽を捧げるものです。伝承によれば生贄は娘→猪→雀と移り変わったそうですが、その雀も今は取ることができず弓で射る形だけの神事になっているようです。11日の本社祭典では小坂井・宿地区の祭り当番が裃着用して「社式」請けに来る。社式には「神供祭礼無怠慢 先規之通毎年 4月11日 天下泰平 五穀成就 万民繁栄之祈所 如件」と奉書に認められ、これを青竹に挟んで地区祭り当番に渡されます。

 その後、神社の下の神田で神主による御田植神事が執り行われます。このような生贄・社式・御田植の神事で分かるようにこの祭りは農耕儀礼です。

水路 菟足神社の景観は農耕を司る、特に水を司る神であることを如実に物語っているようです。神社は広々と広がる水田を見下ろす高台の端に位置し、水田には幾筋もの水路が流れております。
御影井神社から下る坂の途中に「御影井」という昭和の頃まで懇々と水が沸き出でていた泉の跡が残っております。「御影井」は神の宿る泉という意味で、大切な水路の源だったのでしょう。
 その農耕を司る神の春祭りが「風祭」というのはどういうことでしょう。神社眼下の美田も一度台風にあえば流れを変える豊川に呑み込まれてしまったのではないでしょうか。稲の豊作を祈る農民の大風(台風)に対する畏敬の念から付けられた名前ではないでしょうか。菟足神社と書かれた風車がお守りのようにして売られております。こんなところに農民の気持ちが表れているように感じました。

風車
 外にも、渡津駅の風待ち、柏木の浜にたどり着いた神が風に感謝した等々も考えられそうですが。歴史ある神社の歴史ある祭りは色々なことを語りかけてくる楽しいものです。








砥鹿神社拝殿 三河国一宮砥鹿神社は豊川の沖積平野を見下ろす台地の縁辺にあります。砥鹿〈トガ〉と豊川〈トガワ〉の音から連想されるように、豊川と深い関りのあった神社のようです。その例大祭が毎年5月の3日4日に行われます。都市化した祭りが多くなる中で、広い境内を近郷近在の人で埋め尽くし、神事が流れるように執り行われる、昔ながらの三河の国の大祭です。今年は、西門に御例祭の看板と対をなして「がんばれ東北」の看板が立てられていました。三河の国の一宮では、今でも毎月のように御田植神事・管粥神事等の個別の神事が古式に則って行われております。

西門

御神幸その分、
例大祭は特徴薄いものに感じさせますが、よく見ると、例大祭と5月5日の端午の節句が一体化したところが感じ取られるのがこの祭りの特徴です。




騎児馬の疾走 大祭は神幸の儀と騎乗の儀の二つの神事が柱となっています。神幸は境内の御旅所(八束穂神社)までを神輿を中心にして巫女・浦安舞・笛・鉦・太鼓・神馬・騎児馬等の美しい大行列が往復します。流鏑馬もあります。当祭りの流鏑馬は稚児が止まった馬の上から的に矢を射る形をするもので、関東武者が疾走する馬上から矢を射る、勇壮なものではありません。祭りの人気は騎乗の儀にあります。馬には歴史ある綺麗な鞍を置き、着飾り顔に化粧を施した小学生・中学生が馬に乗り、「五色の流し」を風になびかせて疾走します。



鐘馗の面 「三河国一宮砥鹿神社誌」も認めるように、この流鏑馬・騎児馬の疾走は端午の節句の行事が採り入れられたものです。昔は、参拝者への粽の授与も行なわれたようです。露店では、今ではあまり見かけなくなった鐘馗の面が売られております。鐘馗は端午の節句には欠かせない魔除・厄除の中国伝来の神です。露店の多さもこの祭りの売り物、広い境内を埋め尽くし祭りの雰囲気を盛り上げて、この地方随一の花や植木の市もこの祭りの名物になっています。


 新城市域には数々のお盆の伝統的行事が残っております。
 8月の15日に新城市竹広・信玄地区で行なわれる火踊(ひおんどり)は太い松明を振り回す勇壮なもので多くの観光客が訪れます。 この「ひおんどり」の起源は天正3年(1575)5月の長篠合戦にあると言われております。不思議なことに、戦い終わって6月になると竹広・信玄地区で蜂が大発生し信州往還を通行する人馬を刺す被害が続出した、竹広の村人は織田・徳川の連合軍に敗れた武田軍将兵の亡魂の為せることと考え、大施餓鬼を行い、夜は松明を灯して供養しました。この松明供養がお盆の行事の中に残ったとされております。400年余の時代の重みを加えて今に伝えられております。
 とっぷりと日が暮れると村人は竹広の旧家峯田家に集まり連吾川に入りお清めをし、再び峯田家に戻り当家で採火した浄火を点火用の三本の松明に移します。浄火は,ここから峯田氏が先導で提灯・鉦・太鼓・笛の順に並び、これの後に踊り子が続き、裏の林の中を武田の武将山県昌景の墓に参り進みます。

採火された浄火 点火用の松明 踊り子衣装

 林を抜けたところに竹広・信玄の両部落で作った50本前後の松明全てが集められており、ここで全ての松明に火を灯して浄火の隊列は暗い畑道を、武田の戦死者を葬った信玄塚まで進みます。信玄塚に到着した火の列は武田の兵が眠る大塚・小塚の二つの塚を3周します。この後広場に移り大小5・60本の松明を袈裟懸け十字に勢いよく振り回します、風を受けた松明は一気に火勢を強めまさに天をも焦がさんばかりの迫力です。
 松明を持った踊り手は「ヤーレモッセモッセモセ、チャンチャコマツオトーポイテ、ヤーレモッセナンマイダ」と囃し立てます。演じ手によっては「ヤーレモッセナンマイダ」が省略されています。

点火 松明の行列 松明の乱舞

 この素朴で勇壮な「ひおんどり」が400年余も受け継がれてきた基の力はなんだったのでしょう。
  連吾川両岸の水田稲作の虫害防止の虫送り?
  それともお囃子の文句「ヤーレモッセナンマイダ」に見られる念仏?
  それとも最近は観光?
 竹広の方にお聞きしたら、虫送りも念仏も関係なく、ましてや観光客集めでやっているのではない、何もメリットなど求めておりません。ただ先人たちの伝える行事を守り、供養を続けるだけですと。まったく打算のない良い話が聞けました。質問したこちらが恥ずかしくなる思いでした。


 愛知県豊川市の市田地区に稲の害虫駆除行事「虫送り」が今も残されております。
伊知田神社 夏から秋口にかけて稲の液汁を吸って稲を枯らしてしまう恐ろしい害虫ウンカを追い払う虫送りが日本の村々で行なわれていました。誘蛾灯・農薬のおかげでウンカの害から開放され、今は夏の夜を彩る火祭りとして所々に残されております。
 市田地区は1950年代の頃までは条里制の遺構が見られる水田が残っておりました。北の坪・四反田・五反田・七反田等の古代・中世に開かれた水田を示す地名も残っております。山裾には幾つも溜池があり白川を中心に水田が広がる稲作で栄えた村でした。虫送りの行事は「市田の松明」として今に伝えられております。毎年9月の第二土曜日に伊知田神社と秋葉社の祭りとして行なわれます。

松明(母親の持つトーチ型松明も見える)     聖火(提灯)     聖火点火

 日没6時頃伊知田神社で祝詞があがり、その後灯りを全て消した真っ暗な神殿に神官が一人上り聖火を灯します。聖火は提灯に移され、竹を芯にして麦藁を巻いた2メートル強の松明を鳥居近くの田の畔に並べて待つ氏子達のところに進みます。松明に火が灯ります。この松明を担いで白川の土手から水田の畔を通って赤塚山の秋葉社に向かって延々と行進します。赤塚山に到着した松明は火を司る秋葉社の前で集められ明々と夜空をこがします。祠前で祝詞があがり祭りは終了します。

      秋葉社(赤塚山)      秋葉社に集められ燃える松明

 9月の虫送りは少し時期として遅いように感じますが、麦・米二毛作の昔は今より一ヶ月ほど稲作業は遅いのです。大風の吹く頃が穂孕みの時期で、この頃急激に発生するトビイロウンカが、秋ウンカと呼ばれ、稲の大害虫として大飢饉の元凶として怖れられました。市田の虫送りはこのことを今に伝えているのです。都市化の波が市田の景観を変え、農業人口の減ってしまった今は、本来の大松明に加えて聖火トーチのような子供松明を作り、子供や母親が大勢参加できるほほえましい火祭り宵祭りとなって、賑やかに続けられております。

               水路(白川)


 古来より、桜は日本人に最も親しまれた花です。その花の美しさや散り際の見事さから精神性の高い花とされてきました。 サクラの語源は稲作文化と結び付いたサ クラと考え、サは稲・田の神を、クラは神座をあらわすという説が一般に語られております。「種まき桜」「代かき桜」といった名の桜が残っているのも肯けます。
 日本各地に桜の名所があり、また名前のつけられた名木が大切にされております。しかし、東三河について調べると天然記念物に指定されている桜は意外と少ないように思います。当地で国や地方自治体の天然記念物に指定されているのは、松沢寺の山桜(御津)、宝円寺のしだれ桜(一宮)、金沢の山桜(一宮)、長福寺の山桜(音羽)、金龍寺のしだれ桜(津具)、龍洞院のしだれ桜(東栄)、児童館のしだれ桜(東栄)と平成3年の調査書に載っております。桜の木は寿命が短いのが一般的なのでしょうか古木は少ないようです。
 今回ご紹介する旧一宮町(現豊川市)の宝円寺のしだれ桜はやがて五百年にもなろうかという古木です。豊川の支流宝川を遡った上長山にあります。しだれ桜です。桜の木から少しはなれた西の所にある松源院の縁起には二代目の有玉和尚がお植えになったことが記されておるそうです。有玉和尚は1509年にこの寺を継いでいて、桜は16世紀前半に植えられたと考えられます。
 当時の東三河は今川、松平、武田と戦国の英雄が覇を争った地ですから、豊な土壌を母に、兵馬の響きを感じながら育ったのでしょう。宝川の流域には田んぼがあり、点々と寺やお宮が残っており、古くから稲作の栄えたところです。何か農耕儀礼と結び付いて大切にされてきたのでしょうか。
 老木のためか花の付き方が年によって異なり、万朶に咲き誇る桜花を見るには二・三年通う必要があるかもしれません。

宝円寺のしだれ桜 宝円寺のしだれ桜


 豊川の左岸を走る県道69号豊橋鳳来線の庭野の信号を南東に100メートルほど入ったところに一本の木があります。木は道路の真ん中にあるのです。そのためそこだけ中央分離帯のようになっています。気になる木です。この木の根元に木柱が立っており新城市の天然記念物で椋の木であると記されております。この木を見て気になることが三つあります、椋の木であること、どうして道の真ん中にあるのか、それと枯れる心配です。

椋の木 愛知県で椋の木が天然記念物に指定されているのは10本程度です、そのほとんどが木曽川左岸の平野部にあります。三河では岡崎と新城です。古い「八名郡史」には庭野の隣一鍬田に椋の大木があったと写真まで載せております。新城で多く見かける椋の木によく似た木は榎です。榎は実生が多く、椋の木は意識的の植えられたもののようです。この椋の木も今川家の武士が帰農した時に植えたという伝承があるようです。この辺から樹齢推定400年というのが言われているのかもしれません。それにしてもどうして道の真ん中に生えているのでしょう。この椋の木は庭野村で庄屋を務めた松井家の庭の奥に背景木として植わっていたそうです。昭和35年新城町の天然記念物に指定されました。当時は椋の木の西側に細い町道がありました、この道は奥の大脇部落の人達が使う細い道でした。この道が新しく出来た工業団地と新城市街とを結ぶため拡幅されたのです。椋の木は邪魔になりましたが天然記念物であったので、松井家の協力を得て車線を分離させて道の真ん中で生き残りました。昭和61・62年のことです。

 椋は生き残ることが出来ました。でも、現状を見ると痛々しさが目に付きます。樹形は太い幹を残して枝は短く切り落とされて、残念ながら大木の風格はありません。東の方から見ると、幹にはぽっかりと穴が空き芯の部分はなく皮で生きている状態がわかり痛々しい限りです。加えて、自動車がひっきりなしに通ります。1トンもある重い物体が振動しながら通過するのですから、地下の根にとっては大変な負担で弱っていることでしょう。道路に特別な付加軽減処置が施されていればよいのですが・・・。物言わぬ大木の声を聞いてやれればよいのですが・・・。

椋の木が残る道


家康潜みの楠 東三河には家康が隠れたとか逃げたとか云う伝承が多くあります。天下を取った武将とも思えないほどです。遠江にもあるのではないでしょうか。 豊橋市の北東豊川市との境近くにある賀茂神社に、家康潜みの楠という御神木があります。透塀の門をくぐり拝殿に進む左手に注連縄の掛かったさして太くない楠がそれです。案内札には「天正元年一月七日、野田城の合戦で武田信玄に敗れ敗走した家康が、この御神木の洞穴に潜み危地を脱した」「慶長八年九月この神恩に報い賀茂神社に、神領高百石の朱印状を寄進された」「楠は樹齢千年余」というようなことが書かれております。

 写真で分かるように、千年を越す楠には見えません、千年もする木なら国か県の天然記念物に指定されているはずです。おそらく大木があり朽ちてひこばえが育って今に至っているのでしょう。

 それにしても式内社でもない神社の、神領高百石とは驚きです。東三河では一宮の砥鹿神社が百二十石で、菟足神社の百石に並ぶものです。砥鹿神社と菟足神社は式内社という歴史ある格の高い神社です。同じ式内社でも石巻神社は神領高は五石です。本をただせば慶長八年(1603)以前の賀茂神社は神領高六石でした。まさに「驚き桃の木・・・」ならぬ「驚き楠 百石の木」です。家康と百石の威力はたいしたもので、その後、社格・歴史とも上と思われる神社や近隣のお宮も合祀されたり摂社・末社して組み込まれていった。そんなことから今は菅原道真も祭られており受験生のお参りも耐えないようです。
 本殿は愛知県指定文化財で寛永元年の「一間社流造」です。参道右手の林の中には六世紀頃の「神山古墳」があり豊橋市の文化財に指定されております。また神社の南には広々と水田が広がり、昭和四十年頃までは条里制遺構が残っておりました、その面積は九十町歩だったそうです。

 境内拝殿の左手    楠遠景


 豊川市御津町の下佐脇地区の長松寺に 「どんき」 と云う珍しい名のお祭りがあります。地元では 「どんぎ」 と云うようです。「どんき」は先を食紅で赤く塗った紙の棒のことです(昔は木だったのでしょう)。「どんき」は長松寺本堂内に祭られている秋葉三尺坊のお祭りです、秋葉山の火祭りの系統です。秋葉山秋葉寺の祭りは三尺坊大権現の命日11月16日、こちらの長松寺は翌日の17日でした(今は12月第三日曜日)。

明王院 
長松寺
 どんき祭りは、曹洞宗長松寺本殿での読経の後、僧侶・旧村の役員・字毎の幟・白狐・天狗と続く行列が200b程離れた明王院との間を往復します。ここまでが主祭りで、ここから後は村人の楽しみの時間帯で、白狐が赤い食紅を塗った「どんき」で沿道の子たちの顔に塗ってまわり祭りを大いに盛り上がります。

 「どんき」は漢字で書けば「撞木」だそうです。シュモクと呉音で読むのが普通ですが、ここでは何故かドンキと漢音です。土地の人に 「どんき」 の由来を訊ねても答えてくれる人はいませんでした。

行列      どんき

 三尺坊は天狗の姿で白狐に乗って現れたと言われております。行列の白狐と天狗はこのことを表しております。そして食紅で先を赤く塗った 「どんき」 は火をあらわしているのでしょうか。そして、長松寺は曹洞宗で明王院が修験者の醍醐寺三宝院末です。 どんき祭りは秋葉の火祭りとは形は違いますが、秋葉祭りの要素は揃っています。一方、長松寺の近所には秋葉神社の祠と文政11戊子9月と刻まれた秋葉灯篭があります、こちらも当日幟を立ててお祭りします。面白いことに、長松寺を出た行列は秋葉神社の祠の前を通っても立ち止まることもなくまったくの無視です。江戸時代は秋葉大権現で一緒にお祭りしたのでしょう。それが明治政府の大愚策神仏分離で分けられてしまい、土地の人にとっては迷惑なことになっているようです。ここ下佐脇村は江戸時代は村高1576石という大変大きな村でした。しっかりした水路があり、江戸時代に思いを馳せながら歩くのも楽しいところです。


御旅所
 相撲といえば
 丸い土俵
 裸で褌姿
 と決まった事のように思いがちですが
 どうでしょう。
 四角い土俵
 着衣を付けて取組
 こんな相撲が豊橋牟呂八幡神社に
 神事として残されております。
 四月の例大祭の式次第(下図)を見て
 分かるとおり重要な神事です。

式次第

                                    (豊橋市美術博物館研究紀要18号より)

 写真を見てください。

   拝殿の垂れ幕    土俵

 相撲  相撲  相撲

 なお、四角い土俵は岡山県勝田郡勝央町に残されており、今も使われております。
 着衣姿の取り組みは室町時代の文献には残っております。
 沖縄では現在も見ることができるそうです。


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