書残す 三河国設楽郡宗高町の事
書残す三河国設楽郡宗高町の事


 

人々のこと


宗高には慶応二年と慶応三年の宗門改帳が残されています。慶応二年の宗門改帳は「参州設楽郡宗高町宗門御改帳」、「他所檀家宗門帳」、「他所手形請取帳」からなっております。慶応三年は上記三帳のほかに「参州設楽郡宗高町修験宗門帳」が残されております。この宗門改帳から、幕末に宗高町に住んでいた五十五世帯二百八人の情報を得ることが出来ます。個々について項目を立てながら書いて行きます。

宗門改帳

修験宗門帳、他所檀家宗門帳、他所手形請取帳 宗門御改帳





 

キリシタン宗門御改帳
 宗門改帳というのは通称で幕府・各藩それぞれの名前で作られており、統一された名称はありません。



以上のような色々な名称が報告されております。
宗門改帳は大変な力を持った戸籍簿です。公家・武士以外の庶民は、宗門改帳に記載されることが絶対必要条件でした。 記載されない者は領民としての公的身分が剥奪され領主の保護が受けられない無宿者になってしまい、「お尋者」となります。
宗門改帳で宗門信者であることを証明する仏教寺院は、大変な権力を手にしたのです。強力な権力に腐敗は付物で、目に余る寺院僧侶の行動が現れました。 徳川幕府はもともと仏教寺院が権力を持つことを恐れていましたから種々対策がとられ、「宗門改帳」は庄屋等の村役が作り、寺院でそれを承認すると言う形に落ち着きました。

     

この「宗門改帳」は、戸籍書類資料として世界に誇れる歴史遺産です。世界でこれと比較できる戸籍簿は、ヨーロッパのキリスト教「教区簿冊 Parish Register」だけです。Parish Registerは、16世紀中葉にキリスト教革命が起こり、カトリック・プロテスタントともに信者登録をして囲い込みをします。
その登録簿が「教区簿冊 Parish Register」です。 この登録簿は現在も作り続けられております。、イギリスでは16世紀後半から、フランスでは17世紀から残っております。古いものが残されているのは数カ国だけです。 記載内容は個人名、誕生日、洗礼日、結婚日、死亡日、埋葬等です。

日本の宗門改帳は、島原の乱鎮圧の寛永十五年(1638)に幕府直轄領から始まり、寛文十一年(1671)全国的に毎年の提出が義務付られた。 記載は各家毎に家族全員の宗旨・名前・年齢・続柄を書き上げ、いずれもキリスト教ほかの禁教の信者でないことを証明しています。 面白いことにキリスト教が近世戸籍簿を残す切っ掛けとなったのです。欧州では改革のために、日本では弾圧のためです。

          教区簿冊     


下記のとおり書かれており、記載は現住民で本籍地型ではありません。

宗高町御改帳より抜粋 宗高町御改帳より抜粋


修験宗門帳より抜粋 修験宗門帳より抜粋

教宝院は、修験者は亡くなっており、家主は後家になっていますが、それでも教宝院として自らを証明しています。


他所檀家宗門帳より抜粋 他所手形請取帳より抜粋

宗高町に住み宗高の福住寺の檀家でありながら、檀那になれずに手形扱いになっている人がいます。借家人はいつまで経っても檀那になれないのか、 この頃になると人の移動がはげしく、手形がなくて移り住んだところで手形証明をしてもらえるようになっていたのか、どう考えたらいいのだろう。


宗高に残る宗門改帳は、キリスト教や禁教の信者でないことを庄屋が各家ごと、各宗派ごとに書き出し、それを寺が証明するという形を取っております。 ただし、この形の取れるのは新城と宗高のあるお寺だけで、離れた村にある寺の場合は「他所檀家宗門帳」「修験宗門帳」と独立しております。 また、借家人は全て「他所手形請取帳」に纏められております。面白いことに借家人は、宗高に住んでいて宗高の福住寺の檀那でありながら、 「宗高町宗門御改帳」に記載されることはありません。
宗高では家族で異なる宗派に属するという例はありません。

禅宗

36

浄土宗

本願寺派

10

修験宗

真言宗

となっております。


江戸時代の家族構成は大家族と思って見るとそれが違うようです。














































































五人家族が最も多く、四半分近くを占めています。 ここからは家族数で見る限り慶応は明治・大正・昭和初期と変わらなかったように見えます。 宗高がそれだけ町場であったということの表れと見ることも出来ます。


家族構成が世帯主を中心にして見てどういう続き柄の人達から構成されているか、直系・傍系と言うことで分けると、核家族型・直系家族世帯型・合同家族世帯型になります。 それぞれは更に二つに分けることができます。

家族構成図

宗高では核家族型が41世帯で全体の実に75%にもなります。
又傍系の親族が同居するのは6軒だけです。その親族は世帯主の兄弟姉妹だけで、 叔父叔母が同居する例はありません。同居の兄弟姉妹も若い内だけで30歳を超して同居している例は1人だけです。江戸時代は家族労働で大家族だったという思いで見てしまいますが、 町場では核家族化が進んでいたことがわかります。


江戸時代社会組織の最小単位としての家は大変に重要視されました。
この一人家族はそのことをよく表しており、4歳で独立した家主と認められています。 

ひとり家族


 

慶応三年の「宗高町宗門改帳」に載っている男性の名前を書き出して整理してみました。
江戸時代の男子は幼名・成人名と一生の内に二度三度と名前を変えるのが普通でしたから、その傾向が分かる年代分けをしたいのですが何所で線を引いていいのか分からず、 現代的な区分となってしまいました。少し傾向的なものが見えるような気もします。

 10代以下20〜30代40〜50代60代以上
○左衛門
○右衛門
○兵衛

○助
○丞

幸右衛門
金兵衛

幸助 仲助 五助 伊助
春之丞
助左衛門

嘉兵衛

栄助

仁左衛門
蝶右衛門 金右衛門 茂右衛門
九兵衛 作兵衛 八兵衛
弥兵衛
清助 松之助


儀兵衛


○次郎
○三郎
○五郎
福次郎 三次郎
六三郎
市五郎
友次郎 金次郎 徳次郎
仁三郎

太次郎 元次郎
助三郎
吉五郎 八五郎
 
○蔵直蔵角蔵 兼蔵吉蔵 常蔵甚蔵
○吉



重吉 幸吉 浦吉 与吉
房吉 鶴吉 照吉 蝶吉
亀吉 太吉 安吉 友吉
佐吉 十七吉 八重吉
清吉 善吉 元吉 治郎吉



源吉 政吉



又吉



○作

良作 藤作 末作 弥作
太作 賢作
栄作

  
○重 勘重 太重
金重蝶重
○治初治   
○平銀平 林平 
その他弥六   

幼名・子供時代の名前と思われるグループは、○作・○吉・○助でしょう。
○吉は、丁・老の年代にも見えるとところからすると、一部では家の名前として大切にされていた部分も有るように見えます。
○助は、官職名由来の重々しい使われ方もあったでしょうが、多くは堅苦しい名前ではなく、大人の手前というような意味合いで使われていたように見えます。
 成人名について、やはり目に付くのは官職名の○左衛門・○右衛門・○兵衛のグループと○蔵・○重です。 官職名が十代以下で付いているのは長男に対する期待度の表れでしょうか。 成人名を読み解くには、家意識を強く持った襲名制を考える必要があるが、その資料は不足しています。ただ、他の文献等から類推できる範囲で 仁左衛門・金右衛門・茂右衛門・作兵衛・九兵衛・八兵衛・金重・政吉・元吉等は襲名されていたと推測できる。これ等は持高の上位にランクされている家です。
襲名と同じくその家で大切に引き継がれる一字も見受けられます。金・八・助・太がそれです。 太郎・次郎・三郎といった俳行名は生まれた順番を示すのが本来でしょうが、一字が加わって○次郎・○三郎となって幼名・成人名ともに使われております。 その家の先祖が次男・三男であったというようなことを示しているのでしょうか。


女性の名前
 女性の名前が分かる文書は、中世に比べれば江戸期は、ずっと多く残されております。それでも、村や町全の女性名が分かるとなると少なくなります。 現在の戸籍簿に相当する宗門改帳には、夫婦は夫の実名は書かれますが妻は誰々女房と記され実名が書いてないのが多いのです。 その点、宗高の宗門改帳は妻も名前が書かれ、実名が全部記されている大変優れたものです。
 慶応二年の宗高町の全女性名を書き出して見ました。全てが二字二音の平仮名表記です。漢字の音写しまたは訓写しと思います。ほとんどが好字からきていますが、 くま(熊)・りき(力)・きん(金)等の難を避ける力のある避邪名も見られます、きん(金)は庚申の日の生まれかもしれません。 傾向がつかめないか年齢別に整理して見ましたが、男性のように系統的な分類は出来そうにありません。
 慶応二年は江戸時代の全く標準的で普通の女性名ばかりですが、前にコピーを載せました慶応三年修験宗門帳に珍しい名前が見えます。「安野」漢字で書かれております。 漢字で書かれているのが珍しいのと「やすの」という三音というのも珍しいものです。
 「いえよの」型といわれる三音型で江戸時代に少しみられます、この型以外の三音型は無いようです。これは前記の二音型の最後に「いえよの」の音を加えて三音型にするのです、 「やす」を例に取れば「やすい」「やすえ」「やすよ」「やすの」というようになります。面白いことに、この「いえよの」型の名前が大正・昭和初期に流行するのです。
この外に、宗高町の純村方文書には「お○○」というような三音表記が見られますが、これは通称で「宗門改帳」「五人組書上帳」などの正式文書に当たると「○○」の二音となって おります。


 今、日本では少子高齢化が大きな問題になっております。 江戸末期は多産の時期のようにも思いますがどうでしょう。宗高の宗門改帳に見られる子供の数の多い家は、 六人が一家族、五人が一家族だけです。二人の子供というのが最も多くなっています。

 六人の子持ちの家の宗門改帳(慶応三年)は下記のとおりです。
  家主 清助(四十八才)    妻 ちえ(四十四才)
  子供 男子 栄助(二十一才) 幸助(十九才) 仲助(十六才)
       女子 ふさ(十四才)  とめ(十一才)
       男子 末作(九才)
 ここで目を引くのが第五子「とめ」、と第六子「末作」の名前です。第四子「ふさ」までは予定どおりといった感じですが、三年後の第五子誕生は少しあわてたというか、 もうこの子で止めにしようという思いをこめて「とめ」と名付けました。ところが二年後第六子が誕生します。そこでずばり最後ですよと「末作」と命名した。

 子供は欲しいがあまり多くても困るという、当時の夫婦の生活観がにじみ出た、そして少しばかり悲しさを感じさせる名前です。

子の名前


慶応二年の宗門改帳を使って宗高町の人々の年齢構成を調べてみました。
最高齢者は女性で七十四歳で、男性の最高齢者は七十一歳でした。最年少は二歳です。このことは一歳の子供はいなかったということではないようです。 全国の宗門改帳を調べてみえる速水融氏の「江戸の農民生活史」によれば、幼児死亡率の高い当時は生れたばかりの赤ん坊は記載しなかった、 三歳とか五歳など村によって記載開始年次はばらばらだったそうです。

年齢構成 幼児死亡率の高さということで九歳以下の子供を細かく見ると、 二歳が六人、三歳が八人と二年間で合計十四人、これに対して四歳から九歳までは六年間で合計十九人です。子供の死亡率の高さが表れているようです。

各年代の構成人員数を表に纏めました。
二百人程度の町ですから平均化されず、バラツキが目に付く数字になっています。女性の数字は九歳以下のところが十一人というのが気になりますが、後は概ね分かる気がします。
ところが男性の数字はどう考えたらいいのでしょう。一人前の男として働く二十代が十四人と減り、更に働き盛りの三十代が九人と更に減少しています。


 

五人組帳 宗高には慶応2年と3年の「五人組名前書上帳」が残されております。 所謂「五人組帳」です。
 五人組帳は「五人組帳前書」と「五人組帳」から成っている物のようですが、宗高には「五人組帳前書」が残されておりません。本来は、「五人組帳前書」に書かれている 守るべき決められたことを庄屋や組頭が一年に一度組員に読んで聞かせ、組員が守りますと誓い捺印したものが「五人組帳」のようです。
 「五人組帳前書」と「五人組名前書上帳」はセットのもの。それが宗高にはセットの「五人組帳前書」が残っていないのです。
 ところが「五人組名前書上帳」に続いて「宗門御改付人別増減書上帳」が付いております、しかも、二帳はこよりで一つに閉じられております。
 「・・・人物増減書上帳」は「宗門改付」と有るように「宗門改帳」とセットのもので本来の性格が違う文書ですから領主側に提出するときは別々に綴じられていた帳でしょう。 それを村側の保存の都合上勝手に綴じて1冊にしたのだろうと思われます。
 「五人組帳前書」を菅沼領内近隣の村に当ってみたが残っていませんでした。古文書の残りのよい村でも見当たりませんでした。他領のものは新城市誌にも引用されておりますが 菅沼領のものは載っておりません。
 五人組については次回具体的に書きます。


 

 五人組は江戸幕藩体制において年貢納入・治安維持・キリシタン取締り等の連帯責任を負わされた支配の末端組織です。組織運営の実態は分かりませんが、 宗高の慶応三年「五人組名前書上帳」に書かれている五人組から見えてくるものをみてみます。
 組は五十戸ほどの町を七組に分けています。

 

 茂右衛門組

   6戸

  元治郎組

   7戸

 太重組  

   7戸

  弥兵衛組

  10戸

 作兵衛組 

   8戸

  仁三郎組

   7戸

 金重組  

   8戸

      

     

 となっております。
 五十戸ほどあるのですから組数は十組ぐらいあってもよさそうですが、何故か七組です。無高の水呑百姓を除いた、高持百姓段階で考えると七組が限度だったのも知れません。 この七組という組数は戦前の隣組にも踏襲されて生き延びております。町が発展し人口の増えた現在もこの七組を元組みとして、人口増加の元組みを二つか三つに分けて 二桁の番号表示をし、元組みが判るようにしています。
 「宗門改帳」と比較すると庄屋・組頭・百姓代の村三役と修験者は除いて組み分けしています。一方、高持の本百姓は当然のこととして無高の水呑百姓も組み込まれております。 分け方は近隣に住まいする者を集めておりますが機械的な順番というわけではありません。高の高い者と無高の者とを組み合わせ、全体の高バランスも取ることを心がけているように 見受けられます。
 組の長を務める家は村三役を含め十数軒あったようです。組全部の写しを付けます。これは宗高町に残された副帳ですから村三役の印鑑がありませんが本帳には押印しております。 組の一番目に一段高く名前のあるのが組頭ですが、村三役の組頭とは関係ありません。高持を前に、無高を後に記載されているような傾向はありますが、 高の高い順に書かれているということでもなく、無高だから後尾に書かれているとも限りません。また、町並み順でもないようです。 名前を見て百官名のような重々しい名を持った者が高の高い人達で、幼名のままのような人達は無高の借家住まいで移動性の高い人達のようです。

    


 慶応三年の宗高町宗門改帳(他所手形は除く)には四十世帯三十一組の夫婦が記されております。下記の表はそれについて纏めたものです。

   
夫の年齢妻の年齢夫の年齢妻の年齢 夫の年齢妻の年齢
7162124844 234544
5242134238 244131
4939144229 253937
5254153733 262923
3226164529 274146
5941174240 284135
3926182826 295046
5145195550 303642
4943205354 312924
104940212927
117266225359

 この表を夫の年齢で層別すると、

 

二十代  

  四組

   三十代

 五組

四十代  

 十二組

   五十代

 八組

六十代以上

  二組

      

   

となっています。
 ここで目に付くことは四十代が39%を占めて、さらに五十代と合わせると65%を占めるということです。一方、二十代は13%しかおらず三十代と合わせても29%です。 幕末は晩婚であったか?いいえ子供の年齢からするとそのようなことはありません。若い夫婦はよそで修行をしているということでしょうか。 どう考えたらよいか、宗門改帳を見ているだけではわかりません。

 親子二代の夫婦が揃っている世帯は 1,2、5,6、18,19、20,21の四世帯だけで、このうち 6と19は隠居夫婦のようです。
 核家族化はすでに進んでいたようです。
 姉さん女房型は、 4、 20、 22、 27、 30の五組、著しく年の離れた夫婦は 6の十八違い、 16の十六違い、 14の十三違いといったところです。

 江戸時代の「家」重視から姉さん女房や年の離れた夫婦が多いのではないかと思ってみましたが、それほど多くはありませんでした。


 宗高町宗門改帳には妻の里は書かれてはおりませんから、妻の出身地は分かりません。それが明治維新になり戸籍制度が採用され、各村は戸籍取調帳を提出することになりました。 ここには妻の出身地や父親の名前等が記載されております。宗門改帳と戸籍取調帳には書式の継続性がないので家族や年齢等を頼りに、慶応三年の宗高町宗門改帳に見える 妻の里を類推してみました。

下記はそれを表にしたものです。

慶応期の地名現在の地名 人数
三河国設楽郡新町村愛知県新城市東新町、西新町
新城町
石田村石田
川田村川田
牛倉村牛倉
真国村牛倉
有海村有海
長篠村長篠
田代村作手田代
粟代村北設楽郡東栄町 振草
上津具村設楽町津具
武節町村豊田市稲武町
八名郡中島村豊川市豊津町
賀茂村豊橋市賀茂町
宝飯郡一宮村豊川市一宮町
平尾村豊川市平尾町
長瀬村豊橋市長瀬町
遠江国敷知郡岡本村静岡県浜松市北区三ケ日町
津々崎村
浜名郡新居宿湖西市新居町

 まず目につくのが同じ宗高町内での婚姻がないことです。小さな町なので適当な縁組が難しかったのかもしれません。逆に複数の嫁が来ているのが新町、新城、石田の 町方の村です。宗高が町方の村であったことをよく現していると思います。距離的に見ると、直線で5kmの範囲に四割五分がおさまっています。さらに10kmに広げると六割強となります。人・物・情報の交流が盛んな所から嫁選びもされているようです。一、二時間で行き来できる、と同時に同じ新城藩であるとか、伊那街道で結ばれているということが影響していると感じられます。一方で同じ5km、10kmでも賀茂村を除いて豊川左岸村の名前が見当たらないのは交流が希薄だったということでしょう。豊川の流れが想像以上に交流の障害になっていたのかもしれません。
 では、遠州三ケ日地区からの嫁入りはどう見るか、一考を要するとこです。遠いところは、北の稲武と南の新居宿で、どちらも30kmから40km 離れております。 遠距離の縁組はどんな背景があったのか想像できません。


 宗高町慶応三年の宗門改帳を下に婿の在所を調べました。妻の場合と同様宗門改帳には出身地は書かれておりません。また、養子であるか否かも書かれておりません。妻の里の例に習って明治七年の戸籍取調帳を使って調べてみました。したがって類推結果ですが表にしました。

 婿の在所

慶応三年の地名現在地名 人数
国名
三河設楽郡牛倉村新城市牛倉
宮脇村八束穂
長篠村長篠
田峯村北設楽郡設楽町 田峰
八名郡日下部村豊川市一宮町
渥美郡西植田村豊橋市植田町
赤沢村(東西)赤沢町
遠江敷知郡大福寺村浜松市北区三ヶ日町
豊田郡佐久間下平村天竜区佐久間町
信濃下伊那郡新野村下伊那郡阿南町

 上記のように十人の養子を数えることができます。慶応三年の宗高町宗門御改帳に記されている世帯数は四十です。四十軒で十人、25%もの家が養子を迎えているというのは 想像外の多さです。中には男の実子がありながら長女に養子を迎えている家もあります。この時代村は家を単位として成り立ち、藩は年貢徴収の基礎単位を「家」 に置いていて重視していたことの表れでしょう。他にも家が大切にされた何かがあったと思います。現代の目では見えない何かが…。
 出身地を嫁と比べてみましょう。徒歩一時間以内が二人、長篠村を含めても三人と近間がとても少ない。嫁が5km〜10kmの範囲で六割強を占めて近い所が多かったのとは 大きな違いです。郡内が四人、三河国東部の他郡が三人、遠江国が二人、信濃国が一人。百姓は歩くよりほか交通手段のない時代、どのような交流から遠い所との縁組が 行われたのでしょう。個々それぞれの事情が判れば宗高町の性格も浮かび上ってくるような気がします。今となっては辿る術がありませんが。


宗高の夫銭帳  「夫銭帳」。
 宗高町には慶応元年の「丑之高掛夫銭帳」が残されております。
 「夫銭(ブセン)」は領主が百姓・町人に割り当てた夫役(人足役)をお金で代納すること。
 これが本来の意味ですが、宗高の「高掛夫銭帳」に記されていたのは、宗高町の運営上必要な費用を各家の高に応じて割り当て負担させたものです。
 江戸時代には領民は年貢の外に自分たちに村の必要経費を負担したのです。菅沼領新城では「夫銭帳」と言っておりますが、よその地方では「村入用帳」「小入用帳」「入箇帳」等の 呼び名で記録に残しております。
 領主が村費用の大筋を決め費用帳として提出を義務付けております。
 これは地域差や村役の専横などを防ぐことにあったようです。村費用の増加は村の疲弊を招くおそれがあるので、領主は村費用の倹約を時々命じたようです。
 宗高にはそうした文書は残されておりません。
 夫銭帳の具体的内容は次回に記します。


 「夫銭帳」の初めの部分は「目録」ということで、どういうお金を集めるかということが書かれております。

夫銭帳1
目  録
一、弐俵役給
 弐拾六貫九百七拾六文
一、一貫六百七拾弐文番人
一、弐拾貫六百三拾壱文夫銭
 四拾九貫二百八拾三文
四百五拾六文
三百八拾六文
一、六斗出役
 弐拾壱貫八百七拾六文
廿九割
七百五拾三文
夫銭帳2
一、六斗所役
三拾割
七百二拾八文
一、二俵ありき
 弐拾六貫九百七拾六文
五拾弐割
本門五百拾弐文
半門弐百五拾七文
一、三百八拾弐文弐夫金

このように書かれております。ここでの項目の意味は、

「役給」  庄屋等の村役の年給
「番人」  火の番・犯罪の探索・犯罪者の捕縛・変死人の処理等、
      役人の手先となって人の嫌がる仕事をした人の年給
「夫銭」  領主への夫役の代わりに納める金銭
「出役」  臨時に役に出る時の費用
「所役」  伝祖以外の課役、こまごました費用
「ありき」 伝令費
「弐夫金」 この意味が分かりません

です。また、高宛というのは各家の高に比例して割り当てられる分、門宛は無高の家族に一律に割り当てられる分です。 ○○割というのは何軒の家で割り振られるかということ。本門は高を持った家、半門は高のない家族ということです。


 「夫銭帳」の二番目の部分はそれぞれの役の給料が米と金額で記されております。

役 料 覚
一、米 五斗庄屋給
内 五升    助庄屋引
引テ
四斗五升
此金  弐両壱分弐朱ト
三百八拾四文
一、壱斗九升組頭給
此金壱両ト
百七拾九文
一、五升百姓代
此金壱分ト
百弐拾八文
一、一俵三斗壱升ありき
此金  三両弐分弐朱ト
三百四拾九文
一、六升  助ありき
此金  壱分壱朱ト
七拾六文
一、五升  助庄屋給
此金壱分ト
  百弐拾八文
一、壱分番人

このように書かれております。これを前回の「目録」と今回の「役料覚」と合わせて見ると、 お米表示の計算はぴたりと合います。今回の場面では表示がありませんが、菅沼領(新城藩)では一俵は三斗七升となっております。まず、役給。全体で二俵と書かれています。2俵=7斗4升です。

       
 本庄屋  4斗5升
 助庄屋5升
組頭  1斗9升
 百姓代5升
合計  7斗4升

 次は、ありき。全体で二俵、これも7斗4升です。

本ありき  1俵3斗1升=6斗8升
助ありき6升
合計7斗4升

 一致です。
 最後は、番人。米表示はなし、目録・役料覚とも金額表示だけです。
 金額面は慶応元年十一月の金貨と銭貨の正式な換算がわかりません。
 唯一の手掛かりは、番人の表示が目録では金貨表示、役料覚では銭貨表示となっている点です。
    目録では1貫672文
    役料覚では金1分
 となっております。即ち金1分=1貫672文ですが、これを頼りに計算してみましたが合いません。
 役給・ありきの個々は合うのですが集計が合わないので割愛します。


 「夫銭帳」は目録・役料覚で総論が終わり、続いて各戸の割り当て金額が書かれております。 代表的なところを例示します。

助左衛門
一、  一石二斗六升
        七文  二夫
    九百六十五文 三品〆
    五百拾八文 ありき
    七百五拾三文   役
 二貫二百四拾七文
林 平
一、    三斗三升○六勺
    四文   二夫
  百五十文   三品〆
 三百七拾五文  役 半分
   五百三拾三文

  一行目は戸主の名前。二行目はその家の高(年貢計算基準生産高)。三行目からそれぞれの負担金額です。 三行目は二夫の三百八拾弐文を各戸に割り振ったものですが、その計算基準は分かりません。四行目の三品〆は役給・番人・夫銭をあわせたもので、 各家の高に四百五拾六文を掛け更に門宛の三百八拾六文を加えたもののようです。ただし、林平は門宛三百八拾六文を負担しておりません。 五行目はありきの負担です、これは均等割りで五百拾二文と目録には書かれていますが実際は五百拾八文取っています。 林平はこれを負担しておりません、この年のありき役だったのでしょう。  六行目の役は目録の出役のことで均等割り七百五拾三文です、林平は半額の負担になっていますが理由はわかりません。
 ここでも足算が合いません。不思議な四文の差が出ております。(借家も同)

借 家
  役給 
一、 三百八拾六文  番人 
  夫銭 
 二百五拾七文  ありき
 六百四拾七文
一、 六百四拾七文     佐治良
一、   〃        木○屋
一、   〃         周蔵
一、   〃         林蔵
一、   〃        伊之助
一、   〃         吉蔵
一、   〃       金右衛門

 借家人の負担は三品の均等門宛額の三百八十六文とありきの半門額二百五十七文です。 借家人は二十五人記されております。 このうち二十三人は上記の六百四拾七文負担しております。他に一人は百文少ない五百四十七文、もう一人は半額の三百二十四文となっております。 減額理由は分かりませんが期間が考慮されたのではないかと思います。この借家人の中には純粋な借家人だけでなく隠居も含まれています。


 江戸時代の税金の基本は年貢です。年貢という言葉は今ではあまり使われませんが、昭和の初めまでは使われる場面が変わりましたが
 使われておりました。年貢は武士社会の基本的な収入源でした。今の税金に相当します。年貢の計算基礎は各村の石高の計算基準から導き出されものです。
 村高があって年貢が決まります。今の税金は個人の収入が基礎で決まるのと大きく違うところです。

 宗高町の場合は村の石高慶応二年時六十石四升七合です。ここから年貢が導き出されます。年貢の算出基礎が毎年藩から庄屋に示されます。
 それが「三州設楽郡宗高町当歳御成箇割付之事」通称免状です。慶応二年免状は次のように書かれております。


  

 この免状を見ると宗高町は課税基準の異なる古新田・新田・掘返新田の三つの土地群からなっております。
 三者の合計が村高の六十石四升五合,その年貢高が十二石三斗二升五合ということが分かります。此の免状の発行者の今泉四郎左衛門は家老です。
 使われている紙も上質のもので、他に藩から村(町)に出される文書と比べ物になりません。免状はどの村でも大切に保管されました。


 宗高町の免状に書かれていることを見てみます。
三つの年貢負担率の異なる土地群からなっていることは先に書きました。
 この三つの土地群の分類基準は、「町作りのこと」 で書いておきました。そちらを参照してください。

 また、免状には記載されていませんがそれぞれの土地には生産性を表すとみられる等級がつけられております。
これも、「町作りのこと」の新切り を参照してください。
  
 古新田  この高は24石7斗2升5合です。
 同所新田  この高は27石8斗9升5合です。
同所掘返新田  この高は7石4斗2升7合です。

 この合計60石4升7合と評価される土地には生産の見込みのない道・溝・荒れ地等が含まれていますのでそれを差し引きます。
残りの土地の高に所定の税率が掛けられます。税率は、古新田が毛付弐ツ六分三厘、同所新田が毛付弐ツ弐分、同所掘返新田が毛付三ツ取となっております。
 即ち、
 
 古新田  残高23石2斗2升 ×0.263 =6石1斗7合
 同所新田  残高22石6斗5升4合 ×0.22 =4石9斗8升4合
同所掘返新田  残高4石1斗1升2合 ×0.3 =1石2斗3升4合
 合計12石3斗2升5合

 これが慶応二年の宗高町に割り当てられた年貢です。基礎年貢です。

 一般に江戸の年貢は四公六民とか五公五民あるいは六公四民と言われ半分ぐらいを領主に取られると言われます。
これからすると宗高の年貢は安いとみられるが、これは宗高は新開拓の土地で、開発奨励の意味を込めて低い税率になっていると思います。
また宗高には田圃がないことも影響しているのかもしれません。
 菅沼領の他所の免状を見ると慶安以前からの本田と言われる土地は5割前後の率になっているようです。慶安以降の開発地は低い税率になっています。
この年貢を全百姓によく説明し十二月十五日以前に必ず収めよと書かれております。
   この免状を渡されたのは農作業が一段落ついた十月(今の暦で十一月)で、二ヶ月間で処理しろということのようです。  この免状の署名者、今 四郎左衛門とあるのは今泉四郎左衛門のことで、家老です。村に渡されるもののうちでは最も身分高い者の書状です。


 前項の免状が税金の請求書だったのに対し、今回の皆済目録は税金納入の領収書にあたるものです。
 慶応二年の領収書、皆済目録は翌年の慶応三年二月に出されております。発行者は三浦貞蔵です。この方の役職が何であったかは分かりません大目付か郡代ではなかったかと思います。皆済目録は割付の家老に対し1・2ランク低い役職者が発行するのが決まりのようです。 宛先は庄屋・百姓中(宗高町)ということでこちらは免状と同じです。

 使用されている紙が免状に比べると大きさ質ともに一段落ちるものになっております。内容の検討は次回にします。

皆済目録


 皆済目録には次のように書かれています。

皆済目録

1行目から面食らうことが書かれています。
1 米36俵7升1合 入木大米共 となっております。
 前項の割付で宗高町に割り当てられたこの年の年貢は 12石3斗2升5合 でした。まず表示が石表示が俵表示と変わっております、 そして入木大米共となっておりますから割り当てられ年貢以外のものが含まれているのです。皆済目録ではそれが分かりません。そこで新城菅沼領の年貢について 書かれている「新城市誌」を参考に解いてみました。
 : 石と俵の関係は 1俵=3斗7升(ここでは3斗7升で計算だが、3斗5升で計算することもある)一行目の内容は本途・二升出目米・口米・入木代米の4項目を含んだものを 意味しています。本途は免状に示されている本年貢(12石3斗2升5合)です。
 : 二升出目米は本途にかかる付加税です、1俵(ここでは1俵=3斗5升で計算)に付2升付加されます。5部7厘1毛が付加。口米も本途にかかる付加税です、 1俵(ここでも1俵=3斗5升の計算)に付1升付加されます。2分8厘6毛が付加。入木代米は宗高町では1升と固定です。入木大米は小物成と言われる別税です。 内容は分かりません。
なにか武士の世故さが判る1行目です。

  

 次は、次米として大豆2斗9升、麦1俵を蔵に収めたことが書かれています。この次米は毎年同じで変わることがなかったようです。次米は米に次ぐものということでしょう。 その次は、作柄が悪いので3俵1斗4升9合減額しますと書かれています。
 もう一つ、新井宿の助郷分も減額するとなっています。
 以上加算・引算した最終年貢が31俵1斗2升で、これを米ではなくお金に換算して116両と銭120文を収めたことが書かれております。 宗高町は田圃がなく街道をはさんで家が軒を連ねる町場だったので金納が前提だったようです。

    

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尚、このページに掲載された画像はほとんど丸山氏所蔵の古文書からの抜粋です。

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