長篠の合戦が宗高の生みの親です。 徳川家康は織田の援軍を得て武田勝頼に勝つことが出来ました。 武田勢は甲州に引き上げたとはいえ、徳川にとって手強い敵でした。 そこで家康は、長篠城主奥平信昌に狭隘な長篠ではなく豊川を少し下ったところの広い郷ケ原に新しく城を築くことを命じ、戦略的拠点を作りました。 新しい城を起点に新しい道が作られ、新しい道が沖野川と半場川が作る舌状台地ムナダカ野を横切るところに新しい集落が計画されました。新開地「ムナダカ」の誕生です。 新しい城はそのまま地名となり、「新城」も誕生しました。
新しい往還は、木曾山脈の作る段丘を、やや北に振りながら東西に通っています。
新城にとって、段丘を削る霊玄川・田町川・沖野川・半場川は天然の要害でした。
新往還はその都度坂を上り下りしなければならない形になっております。
更に、西の霊玄川を越したところに一箇所、さらに東は沖野と宗高の二箇所に、道を屈曲させて曲手・クランクを作り防衛策が構じられています。 築城の縄張りの東の端が宗高であったと
推測されます。宗高の集落作りは防衛拠点の意味も含まれていたようです。
武田勢が意識されていたことが新往還によく表れております。
この地図で宗高と書かれている所は江戸時代の下平井村で宗高町ではありません、
新往還に面したところと、吹きだしで宗高と記した狭い地域が宗高です。
慶安元年(1648)伊那往還に面した「下平井村ムナダカ」が
「宗高村」として下平井村から分離独立します。
この慶安元年という年は、新城が幕府領から菅沼家領に変わった年であり、
同時に、三代将軍家光が鳳来寺山東照宮の造営を決め、
そのための伊那往還や鳳来寺道の大改修を命じた年でもあります。
宗高は新領主の下で新しい村として開発に力が入ったことでしょう。
昭和63年に愛媛県川之江市の民家で発見された「新城加藤家文書」に拠れば、
新城菅沼家領地目録(慶安元年四月五日)に
畑 壱町壱反五畝十八歩
高 拾石四斗六升四合 畑 宗高村
御物成弐石九升三合 弐ツ
とあります。この数字は、後世の文書とつきあわせるとき、
すこしわからないところがあります。
畑は宗高村の総面積、高は土地(畑)の米換算された生産性、御成物は現在の税で、弐ツとあるのは生産性に対する税率です。
いずれにしても開発間もない小さな小さな村だったことが分かります。
宗高町の村高は下記図のように73石余と60石余の2説があります。
角川の60石が正しいと思うのですが、平凡社の73石余も出典が書かれている以上頭から否定することも出来ません。ところが困ったことに出典の「元禄七年新切帳」(宗高区有)が行方不明で見ることが出来ません。
ところが「新城市誌」にそれらしい表が載っております、そこでミステリー小説を楽しむような気分でこの表を当たってみると、誤記を発見できます。
平凡社はこの表の孫引きだったように思います。この表はこうした欠点は持っておりますが、天保の「反別改帳」とあわせて読むと、宗高の開発の様子が明らかになってくると言う楽しみもあります。
新切・新切帳という言葉は歴史用語としてあまり一般性のある言葉ではないようです。「国史大辞典」「日本史広辞典」等に載っておりません。
しかしグーグル検索では宗高と長野県塩尻に「新切帳」と言う言葉を見ることが出来ますが、それにしてもたったの二箇所です。
一般には「新検地」或いは「新検」と言ったのでしょうか。
新城市誌に載っている宗高村新切帳という表を右に転載します。
誤記・誤植があるとは言え大変貴重で面白い情報が詰まっているので、個別に検討し、町の開発の様子を探りだしてみたいと思います。
新城市誌の新切表をもとに、天保の反別改帳と対比しながら、宗高の開発状況をさぐって行くことにします。開発の第一期は伊那往還に沿って屋敷地を切り開いて行った時期です。したがって畑の開発は数件しかありません。
慶安元年菅沼家が
転封に際して受け取った領地目録(新城加藤家文書)に見る、
畑 壱町壱反五畝十八歩
高 拾石四斗六升四合
畑 宗高村
御物成弐石九升三合 弐ツ
に相当すると考えます。
これを天保の反別改帳に当たると、その面積は 一町一反四畝二十八歩となっており、少し差異がありますが、ほぼ同じということで先に進みます。
土地番号1番から29番まで、29筆の土地面積と起し人が書かれております。
土地番号1番は面積三畝、起し人は寺となっております。2番から6筆は畑ですが、具体的に土地を特定することは今のところできておりません。8番から29番までは屋敷地です。この22筆の土地合計は、九反二畝余で、1筆平均四畝余(120坪余)となります。
先ず往還の南側が開発され、ほぼ南側の土地が開かれて北側の土地に手がついたところで、慶安となり新領主菅沼家を迎えます。
新切帳(新城市誌)は、中畑 面積二町九畝十七歩 分米二十三石五升二合 です。この数字には正保四年以前分が含まれています。分米は前項の「高」と同じで石高です。 天保の反別改帳でこの新切に相当するのは、土地番号1〜46番まで、 合計 二町九畝十七歩 でぴったり一致します。分米(高と同じ)も一致です。 慶安年間に入り往還の北側が開発され、更に道路が屈曲する曲手(カネンテ) から西の地区も開発されます。 この期の開発面積は一筆当り平均五畝余(150坪余)で前期より広くなっておりますが、これは間口が広がったのではなく奥行きが深くなったことが原因のようです。 これまでの屋敷開発の様子を明治初期の地図を使って整理すると下図のようになり、新領主を迎え宗高開発の熱が高まった様子が分かります。
新切帳(新城市誌)は、面積 中畑 一反四畝 下畑 六畝六歩
分米 十六石七斗三升 となっています。
これには誤植があり、中畑面積は一反四歩 分米一石六斗七升三合 が
正しい数字で、天保の反別改帳で確認できます。
また、この「下畑面積六畝六歩」を天保の反別改帳で特定できたことが、同帳読み解く糸口になり、同じく新切帳(新城市誌)解読のヒントをくれました。
天保反別改帳は地番47番から58番がこの期のものです。
この期の特徴は、@ 往還筋の屋敷開発の基本がこの期で全て出来上がった。これは明治初期の屋敷調査に記されている屋敷は全て承応三年以前の開発記録に遡ることができるからです。A 往還添いの北東の端に三軒だけ小さな屋敷地ができた。往還に張り付くように15坪10坪7坪という小さなものです、まったく奥行きがない屋敷で、地形的には奥行きが充分取れる所です(上記地図、東北のはみ出した所)。これは当初宗高の予定地でない下平井村にはみ出してしまったことを現しているのだろうか。
このように宗高は伊那往還筋の形が整いました。ここまでを開発第一期と区切りをつけることができます。
天保の「反別改帳」には土地番号とそれぞれの起し人が書かれております。1番は寺起となっております。下がそのページです。
「壱番」とあるのは開発順につけられた番号のようです。その下にある「三十九番」は街の東北隅から時計とは逆廻りに屋敷一軒ごとにつけられた番号です。
「寺越訳ケ」は起人が寺であること、訳ケはこの土地が分筆されていることを示しております。実際、壱番の土地は他の家に五歩記帳されており、元は3畝だったことが分かっております。
「古新中畑」の古新は承応3年の新切以前の開発を意味します、中畑は畑のランクで普通をしめします。
「仁三郎」は天保の反別改帳が作られた時点の所有者です。
この一筆の地番から、新しい伊那往還が出来たとき真っ先に記帳された土地が寺によって起こされた土地であることが分かります。このことをどう読んだらいいのでしょう。
もともとムナダカ野と呼ばれていた頃からそこに寺があったのか。どうもそうでは無いように思います、何故なら慶長9年の下平井村の検地帳にそれらしい記載が見当たらないからです。(宗高は下平井村から分離独立した)
新しく城を作り往還を付け替えるのに宗高が重要な地点であったからそこに真っ先に寺を置いたということだと思います。
@ 悪霊や悪い病が入ってこないようにという宗教的意味。 |
A 徳川は勝ったとは言え武田の力は侮れなかったので軍事的拠点としての位置付け。 |
B 当時、僧侶は宗教ばかりでなく知識・技術・金融面で大きな力をもっており、開発には欠かせない存在であったため。 |
等の理由が有ったのではないでしょうか。
今、宗高の福住寺は曹洞宗でありながら薬師如来を本尊として祀ています、こともヒントになるかもしれません。薬師如来と言えば鳳来寺・病・市場等との結び付きが思い浮かびます。
宗高はどんな人たちが切り拓いたのでしょう。当時の資料は残っておりません。
ただ、天保の「反別改帳」に起人という記載があります、これが地番毎の地を拓くことが許された開発者の名前だと思います。そして、正保四年以前の開発に名前の出てくる人は二十五名(前出の資料参照)の人達が宗高を拓いた。この二十五名はどんな人達か何か手掛りがないか、慶長九年の検地帳を調べました。慶長九年の頃、宗高は下平井村でしたから、その下平井村と隣村の設楽市場村に残されている検地帳を当ってみました。これ等の村に同一名を見出してもそれがそのまま同一人物とは断定はできませんが手掛かりにはなると思います。
開発地番2の又右衛門と同7番の助左衛門の名が設楽市場村にあります。地番2〜7は畑地で半場川を挟んだ設楽市場村寄りのところです、設楽市場村の人達が新しく道ができたので川を渡り畑を拓きに来たと考えて不思議はないと思います。この畑地では下平井村の人の名前は見当たりません。
次に、開発地番8〜29の屋敷地。こちらには下平井村の勘七・作左衛門・太郎右衛門・源左衛門・勘左衛門の名前が見えます。また、前述の設楽市場村助左衛門の名前も見えます。このように近隣の村の有力者や希望者に開発の許可が出されたのでしょう。
起し人の名前が下平井村検地帳の或地区に集中していると言うことなら、下平井村の旧往還添いの人が半ば強制的に移住させられたとも考えられますが、そのようなことは為されなかったようです。
村作りや町作りのリーダーとなった人たちを芝切りといいますが宗高の場合は誰だったのでしょう。屋敷で見ると1反以上の開発者は庄右衛門・九郎兵衛の2名。真っ先に名が出ているのは地番8の八兵衛、次いで地番9は仁兵衛です。
天保の反別改帳には開発期の25名の人達の名前がそのまま継続している土地はありません。200年近い時間の流れと人や家の浮き沈みで、芝切りを割り出すことが難しくなっております。
別の見方で、地番1の寺を重く見て、僧侶がリーダーだったという見方も残るでしょう。他所の新開地村の開発例など知りたいところです。
徳川家康の命により長篠城が移され新しく郷ケ原に新城が作られることになり、 それにともなって付け替えられた伊那往還。
新伊那往還あっての新しい村「宗高」、そうなると気になるのがどんな道だっただろうかということです。戦国武将は戦略上道作りを重要視していたことは古文書で分かります。織田信忠は尾張国の道路幅員を次のように命じております。
幅員(本街道) | 三間二尺 |
幅員(脇道) | 二間二尺 |
幅員(村の道) | 一間 |
この道路幅員は武将にとっての道作りの基準的な数字だったようです。では宗高の伊那往還は実際にはどうだったのでしょう。現状は大幅に改修が進み江戸時代の面影はありませんし、関連文書も残されていないようです。江戸時代のものは無いので明治の資料を当たってみると,明治十八年の南設楽郡平井村地籍図(愛知県公文書館蔵)には、
長さ | 三百九十九間五尺四寸 |
幅員(村の東西入口部分) | 二間 |
幅員(中心部) | 二間三尺六寸〜三間三尺六寸 |
と記されております。
もう一つ、明治三十二年生まれで東郷村の小学校の先生をしていた阿部榮さんの書かれた本「思い出すままに」に宗高の道に関する記述があります。道幅は九尺のでこぼこ道で、雨が降ると水たまりが出来ます。余りでこぼこになると砂利を敷きました。こぶし大から小さい石を道一杯に敷くのです。大川から馬車で運んで来て、敷いて均すのです。
道幅九尺とは余りにも狭いと思っていたところ、豊川市小坂井に東海道から伊那往還が分岐する所が昔の面影を残していると知り、写真を撮ってきました。道幅は2.4m程度、実に狭い。阿部さんの記述が納得できる気がします。しかし宗高は新しい城の末端として、軍道としての意味合いがあったはず。平井村地籍図と阿部さん記述との差はどう考えたらよいか迷うところです。
宗高町の幕末期の規模は下記です。
石高は六十石四升七合
面積五町八反六畝十九歩
その詳細は慶応二年の税金元帳とも言うべき割付帳「三州設楽郡宗高町当寅御成箇割付之事」に見ることが出来ます。
これから見ると、表の石高は六十石余でも、ここから道路・排水溝・草生地等を除いた実石高は四十九石九斗八升六合となります。割付帳についてはもう少し踏み込んでみてみたいと思っております
宗高村の誕生は慶安元年と書いてきましたが、これは少し疑ってみる必要がありそうだと気付くようになりました。
日本歴史地名大系(平凡社)日本地名大辞典(角川書店)のいずれも慶安元年下平井村からの独立としていますが出典は示されていません。地元「新城市誌」も慶安元年説で出典は慶安二年の「宗高村新切帳」らしく書いております。さらに、町村合併前に宗高の属していた東郷村の「東郷村沿革誌」も昭和二十六年版では「慶安元年宗高村が創立した。」とあり、頭注に宗高村新切帳とあります。ところが、同じ「東郷村沿革誌」でも昭和十一年版は「慶安二年宗高村創立」としています、出典は示されていません。
宗高村新切帳は今行方不明ですが、昭和に書き写されたものが残っております。それをみると、慶安二年に新切をしたと書かれていますが、慶安元年のことは何も記述はありません。
白紙に返って、宗高村を文献上で探すと初見は、「慶安元年子三月十二日三河設楽郡宝飯郡壱万石」のなかで宗高村 拾石四斗六升四合とあります。
この書状は幕府より新に新城領主に任じた菅沼家に下されたものです。三月と言う年の早い時期に出されていること、幕府からの書状であることからして、宗高は慶安元年以前に既に宗高村になっていたことを表しているのではないかと考えます。それは何時か、文献がないので確たることは言えないが、正保年間の水野氏領の頃だったのではないだろうか。
次に、宗高町になったのは何時か。
これは承應三年です。承應三年の新切帳に次のように書かれております。
承應三年午二月
午之改新切帳
宗高村
藤野九郎右衛門
午之改新切帳
宗高町
以上のことから、承應三年に宗高町になったことが判ります。
「割付帳」と呼ばれる江戸時代の税金の元帳をみると、本田・古新田・新田・掘返新田といった項目に分類されております。これは新田開発の奨励から税率を下げ優遇することにあったようです。宗高は慶長検地以降にできた村なので本田がなく、古新田・新田・掘返新田の三項目からなっております。享保十一年に幕府勘定奉行より各地代官に出された「新田検地条目」では、
本田は元禄以前に開発・検地された
田、畑、屋敷
古新田は元禄〜享保に開発・検地された
田、畑、屋敷
新田は享保後開発された田、畑、屋敷
となっているようです。
新城藩では幕府の区分を用いておりません。明治二年の新城藩(まだ新城藩が存在)の割付帳には、
本田とだけ記され注記なし。
古新田には、右肩に「慶安二年高入」
と注記があります。
新田には、同じく右肩に
「寛文十二年高入」と注記され、
掘返新田には、寛文十二年高入
と注記されております。
しかし、この区分は実態を表してはおりません。新切帳と照らし合わせてみると次のようになります。
慶安二年の新切では、高二十三石
五升二合。高が古新田の二十四石
七斗二升五合になるのは承応三年です。
寛文十二年では、高二十三石六斗五升
七合。これは二十七石八斗九升五合には
及びません。二十七石八斗九升五合
という数字は、元禄七年の新切と
それ以降の新切も含めたものです。
以上のことから、古新田は承応三年以前に新切された地、すなわち新切帳では慶安二年・承應三年となります。新田は、承応三年より後に開発された地、すなわち新切では寛文十二年・元禄七年とその後のものを含めたもののようです。
江戸時代は細かいことにはあまり拘らない大らかな時代だったようです。しかし、現代の目で古文書を読むとき、大変悩まされます。特に数字には迷わされます。
「割付帳」が本田・古新田・新田・掘返新田といった項目に分類されていることは先にも書きました。このうちの「掘返新田」がどういうものなのかよく分かりません。掘返新田という語は歴史辞書にも、コンピューターの検索でも出てきません。手持ちの資料では寛文十二年の宗高町新切帳に「辰ノ年掘返し」・天保二年の宗高町反別改帳に「掘返し上畑」・幕末期の宗高町割付帳・明治三年下平井村割付帳に「掘返新田」とあります。「掘返新田」「掘返し上畑」が同じことであるのは下図資料から分かります。また、「辰ノ年掘返し」も同じであることは確認できております。
宗高町「掘返新田」の特徴は、石盛が十三と高く、免(領主取り分)が三ツとこちらも高いということです。領主にとっては嬉しい新田といえますが、わざわざ独立させるほどのことでもないように思います。「掘返し」という言葉からすると、既にあった耕地が荒地化していたのを新しく掘り返し耕地として甦らせた、と想像します。しかし、江戸の検地帳は荒地化した耕地も「荒地」として記載しております。しかも、宗高の慶長時代は原野で本田がありません。したがって、慶長検地以前に荒地化した耕地はありません。古新田が荒地化し掘り返されたのなら、新切として面積増加させるのでは辻褄が合いません。
公文書とは別に、太田白雪が享保十六年の書いた「新城聞書」に「掘返シ畑ノ初リ」というのが見当たります。太田白雪の「新城聞書」には右のようにかかれております。
ほかに「掘返し」ではないが、同じことと思われる「天地返し」という語があります。「東郷村沿革誌」昭和十一年版・昭和二十六年版に「寛文三年 下平井村東原にて耕地の天地返しを行う」とあります。昭和二十六年版では出典を下平井村新切帳、その耕地は五畝七歩としています。
宗高町の「掘返し」は寛文四年甲辰に行なわれております。「掘返し」と「天地返し」は同じことで、新田開発の優遇措置が取られない新田として、半ば強制色の強い新田開発だったのでしょうか。
「掘返新田」については宗高町だけで考えたのでは本質が見えません。他領・他村ではどう扱われているか、資料を分析する必要があります。
かつて、新城市誌に載っている宗高村新切帳には誤記・誤植が見られるが、面白い情報が詰まっているということで抜粋、「表20 三州設楽郡宗高村新切帳」(ここをクリック)を抜粋転載しました。しかし、誤記・誤植を具体的に指摘することは控えました。原典が行方不明で根拠を持って指摘できなかったのです。
原典は相変わらず行方不明ですが、昭和20年代に書き写されたものが見つかっています。これは歴史資料の扱いに対する確りとした姿勢の読み取れる資料であり、筆者は天保の反別改め帳と比較検討し、原典に限りなく近い資料ではないかという考えにいたりました。
新切帳は4帳あります。
各帳の発行年と石高は次のとおり。
慶安二年 三州設楽郡宗高村新切帳 23石5升2合
承應三年 午之年改新切帳 1石6斗7升3合
宗高村 宗高町
寛文十二年 三州設楽郡宗高町新切帳 31石8升4合
元禄七年 戌之年改新切帳 4石2斗3升8合
宗高町
各帳の新切の年・面積・分米を纏めたのが次の表です。
宗高村新切帳(写し)〆年表
帳 | 切り年 | 等級 | 面積(町反畝歩) | 分米(石斗升合) | ||
慶安二年新切帳 | 慶安二年 | 中畑 | 209 | 17 | 23 | 052 |
承應三年新切帳 | 承應三年 | 中畑 | 10 | 04 | 1 | 116 |
下畑 | 6 | 06 | 0 | 558 | ||
寛文十二年新切帳 | 未ノ年 | 下畑 | 21 | 10 | 1 | 920 |
申ノ年 | 下畑 | 197 | 12 | 17 | 766 | |
戌ノ年 | 下畑 | 4 | 25 | 0 | 435 | |
巳ノ年 | 下畑 | 8 | 15 | 0 | 765 | |
寅ノ年 | 中畑 | 0 | 14 | 0 | 051 | |
下畑 | 4 | 08 | 0 | 384 | ||
卯ノ年 | 中畑 | 0 | 21 | 0 | 077 | |
下畑 | 2 | 20 | 0 | 240 | ||
辰ノ年 | 下畑 | 15 | 09 | 1 | 377 | |
辰年掘返し | 上畑 | 57 | 04 | 7 | 427 | |
子ノ年 | 下畑 | 3 | 14 | 0 | 312 | |
巳ノ年 | 下畑 | 3 | 20 | 0 | 330 | |
戌之年改新切帳 | 卯之切 | 上畑 | 8 | 10 | 1 | 083 |
下畑 | 11 | 17 | 1 | 041 | ||
辰之切 | 上畑 | 2 | 02 | 0 | 269 | |
下畑 | 2 | 15 | 0 | 225 | ||
巳之切 | 下畑 | 0 | 17 | 0 | 051 | |
午之切 | 上畑 | 1 | 04 | 0 | 147 | |
未之切 | 下畑 | 1 | 10 | 0 | 120 | |
申之切 | 下畑 | 4 | 00 | 0 | 450 |
着色列の数値は、面積は畝・分米は石の単位を示す。
さらに新切帳(写)の疑問点については項を改めて書きます。
宗高の村高は六十石四升七合です。 | |||
出典 | |||
@ | 新切帳 | ||
新切帳発行年の村高は次のようになります | |||
慶安二年 23石5升2合 | |||
承應三年 24石7斗2升5合 | |||
寛文十二年 55石8斗9合 | |||
元禄七年 60石4升7合 | |||
A | 天保二年 反別改帳 | ||
惣〆 5町8反6畝19歩 | |||
分米 60石4升7合 | |||
B | 慶応三年 割付 | ||
高 24石7斗2升5合 古新田 | |||
高 27石8斗9升5合 同所新田 | |||
高 7石4斗2升7合 同所掘返新田 | |||
上記3新田の合計が 60石4升7合 | |||
以上のように宗高の石高は60石4升7合で間違いありません。 |
ところが、新切帳(写)の新切年毎の面積・分米の合計は、
面積 5町7反7畝4歩
分米 59石1斗9升6合
です。 村高60石4升7合には及びません。
原因は元禄七年の「戌之年改新切帳」の「申之切」にあるとおもいますが、村請制と村高のことも考えながら、天保二年の「反別改帳」などとの詳細な詰が必要です。
宗高の村高が六十石四升七合であることは前に書きました。この六十石余がどのような家々で構成されていたのか、慶応二年の資料「高掛夫銭帳」から各家の高を書き出して見ました。
宗高町 慶応二年 持高整理 | |||||||
高(石斗升合) | 高(石斗升合) | 高(石斗升合) | 高(石斗升合) | ||||
1 | 5059.8 | 15 | 1260.0 | 29 | 625.4 | 43 | 350.0 |
2 | 4506.0 | 16 | 1175.4 | 30 | 560.0 | 44 | 330.6 |
3 | 4338.6 | 17 | 1136.8 | 31 | 558.0 | 45 | 330.6 |
4 | 4079.7 | 18 | 1068.7 | 32 | 476.7 | 46 | 300.7 |
5 | 3647.7 | 19 | 1031.0 | 33 | 468.0 | 47 | 193.9 |
6 | 2653.4 | 20 | 1006.6 | 34 | 445.4 | 48 | 181.0 |
7 | 2013.0 | 21 | 866.7 | 35 | 443.7 | 49 | 147.0 |
8 | 1815.0 | 22 | 849.0 | 36 | 412.5 | 50 | 146.7 |
9 | 1764.4 | 23 | 845.4 | 37 | 407.0 | 51 | 127.2 |
10 | 1718.3 | 24 | 833.4 | 38 | 400.7 | 52 | 110.0 |
11 | 1647.4 | 25 | 811.0 | 39 | 385.0 | 53 | 106.4 |
12 | 1435.0 | 26 | 730.0 | 40 | 383.4 | 54 | 106.4 |
13 | 1308.1 | 27 | 721.7 | 41 | 381.4 | 55 | 45.0 |
14 | 1279.4 | 28 | 653.0 | 42 | 368.4 | 56 | 23.0 |
この表は持ち高を持った家の全てです。高を持った家は全部で五十六軒。この外に高を持たない借家人が二十一軒あります。
先ず目に付くのが最高の高の家でも五石五升九合八勺しかなく、しかも五石以上はこの一軒だけ。三石から四石の家が四軒、一石から二石の家が十五軒。
実に一石に満たない家が三十六軒と圧倒的に多いのです。
水田を持たず、屋敷とその裏に続く畑地からなっている、街道沿いの町の特徴をよく表しております。水田からなりたっている農村と比べるとそのことがはっきりします。
同じ設楽郡の名倉盆地にある市野瀬村は村持ち高九十石弱の小さな村です。高持ちの家十三軒から成り立っております。石高の分布は、十五石が一軒、十二石が一軒、九石が一軒、七石が二軒、六石・五石・四石が各一軒、三石が三軒、二石が一軒で一石以下は一軒です。無高の人は厄介人として四人所属する家のなかで書かれております。
宗高とは対照的なことがよく判ります。